◎心中を止めるとき声を掛けてはいけない
昨日の続きである。野村無名庵著『本朝話人伝』中公文庫版(一九八三)の「解説」において、演芸評論家の藤井宗哲(一九四一~二〇〇六)は、次のように述べていた。
もはや読者も気づかれているように、無名庵はまるで高座から語りかけるように筆を進めている。当時の読者はおそらく聞きたくとも落ちついて聞けない釈場に思いを寄せながら、防空壕や灯火管制下の薄明りで、本書をまるで世話講談を聞いてでもいるように、むさぼりながら耳で読んだのではないだろうか。
この「耳で読んだ」(下線)という一句に注意されたい。野村無名庵の文体は、まさに講談話の語り口であって、読んでいるうちに、講談師の口調と張扇の響きが聞こえてくるかの感がある。これを藤井宗哲は、「耳で読む」と表現したのである。
さて本書のうち、「耳で読む」という表現が、最もよく当てはまるのは、石川一夢(一)から同(四)までの文章であろう。それもそのはず、この文章は、最初から「講談」の原稿として、ないし、実際の講談を再現した形を借りて、書かれているのである。
そのことを確認していただきたく、とりあえず、「石川一夢 (一)」の全文を紹介してみたい。テキストは、協栄出版社版(一九四四)を使用した。
石川一夢 (一)
此度〈コノタビ〉は初代石川一夢〈イチム〉といふ、講談の名人のお噂を一席申し上げます。この一夢といふ先生は、安政元年〔一九五四〕五月二十一日。
「持つて来た勘定だけの年たちて、うはば〔上葉〕で遊ぶ夢の世の中」
「夢一つ破れて蝶の行衛【ゆくゑ】かな」
と以上二首の辞世を残し、五十一歳で亡くなりました。悟りの開けた人物だつたことがこの辞世によつて窺われますが、初代〔松林〕伯円や伊東燕凌と共に、当時の三名人と称せられ、講釈の方では端物【はもの】といふ、即ち世話講談が巧【うま】く、とりわけて「佐倉義民伝」と来た日には、古今独歩得意中の得意でありましたから、
「一夢がどこそこで義民伝を読んでゐるぜ」
となると、如何なる時でも必ず入り〈イリ〉があつたと申します。所謂極めつき折紙つき、その人に限られた至芸だつたと思はれます。その頃ほひ、東両国〈ヒガシリョウゴク〉の北詰に、講談を専門の寄席がありまして、これは橋番〈ハシバン〉の五郎兵衛といふ人が経営してゐたところから、人呼んで五郎兵衛の席と申しました。その講釈場〈コウシャクバ〉へ石川一夢がかゝりまして、得意の「義民伝」を読んでゐると、面白いので毎日大入り、その中に、そろそろこの続き物も終りに近づき、いよいよ宗吾一族が茨木台でお処刑【しをき】という条【くだり】にかかりました。満場の聴衆、水を打つたやうになつて聴いてゐると、一夢は釈台を叩いて調子に乗り、
「その時数万の見物人、矢来【やらい】の外にて押あひ、へしあへ……」
云々と弁じました。ところが多勢の聴衆【きやく】の中に、佐倉在【さくらざい】から出て来たお百姓が、四五人連れで聞いて居りまして、思はず苦い顔をいたしました。然し多勢【おほぜい】の中だから、一夢は心づきません。その侭に講演を続け、
「さてこのお後〈オアト〉は明日の後座【ごさ】に申し上げませう」
といつもの通り、喝采の裡【うち】にその日は終演【うちだし】となりましたが、かの四五人連れは出ても行かずに後へ残つて居りまして、一夢が丁寧に一礼し高座を下りやうとするとその傍【そば】へ近づいて参り、
「先生ちよつくら待つて下せえ」
「ハイ、何か御用で……」
「ハア、私どもは下総【しもふさ】の者で、今度江戸へ出て参り馬喰町【ばくろちやう】に宿を取つて居りますが、先生の宗吾様の御講釈を伺つて、いかにも感服致しましたので、毎日聞きに参つて居ります」
「それはそれは、御屓贔【ごひゐき】まことにありがたい事でございます」
「就きましては、どうも余計な差出口〈サシデグチ〉でごぜえますが、先生聞いて下せえませうか」
「ハア、何なりとも伺ひませう」
「イヤ外でもありましねえ。今更私共が申上ぐる迄もねえ事でがすが、宗吾様は佐倉領二百二十九ケ村、何万何千人の総名代【そうみやうだい】になつて、御自分ばかりか妻子眷族〈ケンゾク〉の命を投げ出し、一同の苦しみを救つて下すつた大恩人でごぜえます。その神様とも仏様とも思ふ大恩人の宗吾様御一族が、見るも酷【むご】たらしいお処刑【しおき】におなりなさるところを、誰がのん気らしく見物なんぞ出来ますべえかね。心ある者ならば、皆わが家へ引きこもつて表をしめお題目を唱へたり、お念仏を申したりして御一族の御冥福をお祈り申してゐたに違ひねえと思ひます。とてもその場へ参つてお処刑を見るなんて事は、人情として出来ますめえ」
「ウーム、成程……」
「それを矢来の外に数万の見物、押合ひへし合ひと申されましたは、先生にも似合はねえ事ではごぜえますめえか。然かしそこは講釈のことで、文の形容【かざり】といふ迄ならば、せめてそれを見物人と言はずに、宗吾様へお名残【なご】りの別れを惜まうとお見送りの人々、とでもお直しになつてはどんなものでがせうなア」
言はれました時に石川一夢、
「イヤこれはどうも恐れ入りました。大きに心づきませんで汗顔【かんがん】の至りでございます。仰せ一々御道理【ごもつとも】の次第、ようこそ御注意下さいました。以来はお教へ通りに直して弁ずることといたしませう」
恭【うやうや】しく礼を述べました上、兎も角〈トモカク〉もとその一行を、柳橋の万八〈マンパチ〉という有名な料亭【ちやや】へ案内いたし、一夢が御馳走【ごちそう】をいたしました。
「こんな事をして貰つては済みません」
とお百姓たちは恐縮しましたが、国へ帰ってこの事を、名主様【なぬしさま】や五人組に話したので、
「偉え〈エレエ〉先生があるものだ。そういう人に是非佐倉へ来て、宗吾様の講釈を聴かせて貰ひ度え〈テエ〉ものだのう」
という事になりました。そこで今度は五人組の衆が付添って江戸へ出府【しゆつぷ】、改めて一夢の宅【うち】を訪ね、先頃の礼を述べた上、佐倉への来演【らいえん】を頼みましたので、一夢も快よく承諾いたし、日取りを定めて佐倉へ乗込み、二百二十九ケ村の人々へ、毎日組を分けては講演をいたしましたが、有がたい宗吾様のお話でありますから、一同感涙【かんるゐ】を流して謹聴、木戸銭は一切無料【むれう】としたのですが、志の包み金も大層な額に上り、一夢はその半分を佐倉の宗吾霊堂へ奉納、いゝ心持になつて江戸へ帰りましたが、各村の有志から贈られましたビラばかりでも、馬の背に積み切れない程あつたと申すこと、ただしこれは後のお話でありますが、この佐倉のお百姓たちを柳橋の万八へ招待しましたその晩のこと、一夢は客人を送り出して、自分も酩酊【めいてい】した侭、酔顔〈スイガン〉を両国の川風に吹かれながら、本所二葉町〈ホンジョ・フタバチョウ〉の我家〈ワガヤ〉へ帰ろうと、横網【よこあみ】の川つぷちをブラブラ参りましたのが、当今の時間で夜の十時頃おひ、モウ人通りも絶へて淋しうございます。今一夢が御蔵橋〈オクラバシ〉を渡り、長々と続いた筋塀【すぢべい】へ沿つて、夜道を段々参りまする四五間先に、暗中【くらやみ】ながら佇【たゞず】んでゐる人影が見えました。而もそれは二人らしい。どうやら若い男と女のやうだから、そこは苦労人の石川一夢、
「ハ丶ア、密会か、夜鷹【よたか】か、それにはお誂【あつら】へ向きの場所だらう」
心中に苦笑ひをいたし、邪魔をするのも野暮【やぼ】だらうと、塀際【へいぎは】へ身体を寄せるようにいたし、足音を忍ばせて通り抜けようとしたその途端、男も女も今まで泣いてゐたらしい涙声で、
「サア、いつ迄くり返しても同じこと、所詮【しよせん】生きては添はれぬ身の上、お前も覚悟をしておくれ」
「覚悟は疾【と】うにして居ます。未来は必ず夫婦ですよ」
「念を押される迄もない、それではお浜」
「南無阿弥陀仏【なむあみだぶつ】……」
唱名【しやうめう】もろとも身を躍らせ、石垣の上から大川へ、あはや両手をつないで飛込まうといたしました。申すまでもなく情死【しんじう】であります。イヤ驚いた石川一夢一時に酔【よひ】もさめてしまひ、最う〈モウ〉斯う〈コウ〉なつては粋【すゐ】なんぞを利【き】かせてゐる場合でない。それと見るより履物〈ハキモノ〉をぬぎすて、足袋跣足【たびはだし】の侭でそれへ飛び出し、今一瞬の差で河岸を離れやうとする男女の、帯際【おびぎは】を両手で確か〈シカ〉と掴んでから、
「莫迦野郎【ばかやらう】ツ……」
と精一杯の声を出しました。これが一夢の物馴【ものな】れたところで、さすがに始終【しじう】高座から、斯ういふ場合の講釈を演【や】つているだけに、心得が違ひます。若しこんな時にアワを食つて、遠くから声でもかけた日には、却つて先方を早く飛び込ませてしまひます。水ヘ入つてからでは助けにくい、飛込まない中に抱き止めるのが第一だが、それには声をかけてはいけません。いきなり引捕へて〈ヒットラエテ〉おいて、それから警告の声をかけるべきものださうで、これも生ぬるい、同情的の言葉をかけては駄目だと申します。次第によれば横つ面【つら】の一つも引ぱたき先方【さき】がムツとして反感を起すような激しい大喝【だいかつ】を浴びせて脅【おど】かすに限るさうで、何しろ貴重な命を我から棄てて縮めようという程、精神に異状を来たしてゐる時なのですから、普通のことでは気がつきません。ひどく脅かされるので初めて反省もし、所謂つきかかつた死神も離れるといふ道理でありませう。アナヤと身をもがく男女を、力に任せてズルズルズル、往来の真ン中まで引戻した一夢が、左右へ引据ゑてホツと一息、
「何てえ真似をするんだ不量見【ふりやうけん】な。大切に使えば一生保【も】つ寿命を、粗末にするとは何たる罰当りだ、ざまア見やがれ」
と又叱つた。こんな文句は年中高座で売物にしてゐるんだから、骨も折らずにスラスラと出ます。その声音【こはね】に心づいて顔を上げた若い男が、
「アツ、貴方は石川一夢先生、アヽツ、面目【めんぼく】ないツ……」
といふとバタバタバタ、逃げ出さうとするのを又引止めました。
「何だ。どこの人かと思つたら、お前は五岳さんの伜【せがれ】、芳次郎さんではないか」
と一夢も意外に思ひましたのは、同じ講釈師で笹川五岳、この人が又、至つての芸達者で、太閤記全部を無本で演じたという程記憶が強く、一晩中でも打通し〈ブットオシ〉に立読【たちよみ】をして疲れを見せなかつたと申す位、その代り根性もひねくれて居りまして、まだ一夢が修業中の小僧時代、五岳の方がぐつと先輩だつたから、
「廃【よ】しねえ廃しねえ。お前のやうな不器用な弁口【べんこう】で、講釈師なんぞにならうてえのが量見ちげえだ。やめちまへやめちまへ」
高座の横から顔を出して大声に叱りつけ、多勢の聴衆【きやく】のゐる前で、赤面させたことが何遍あるか分りません。その度毎〈タビゴト〉ごとに一夢の無念さは如何ばかり、然し対手は先輩だから言葉を返す事は出来ない。散々【さんざん】苛【いぢ】められるのをぢつと堪へ通しました。
かなり長いが、ここまでが(一)である。語り口は、完全に「講談調」である。
途中、「ただしこれは後のお話でありますが、この佐倉のお百姓たちを柳橋の万八へ招待しましたその晩のこと」という箇所がある。ここで話題が転じ、しかも、時間も遡っている。にもかかわらず、改行もなく、句点(マル)すらない。文章として読んだ場合は、この転換がわかりにくいが、これを講談師が語る場合には、間合いを置いたり、声の調子を変えたりして、聴衆に対して、話題の転換と時間の遡及を明らかにすることになるだろう。そして、読者もまた、ここでは、講談師の「語り」を耳に浮かべることによって、話題の転換と時間の遡及を確認するわけである。
すなわち、これは、講談師の「語り」を意識しながら読むと理解しやすい文章であり、あるいは、そのようにして読むべき文章なのである。これを称して、「耳で読む」文章という。