礫川全次のコラムと名言

礫川全次〈コイシカワ・ゼンジ〉のコラムと名言。コラムは、その時々に思いついたことなど。名言は、その日に見つけた名言など。

『綴方教室』は、たちまち異常な反響を呼んだ

2021-11-30 04:15:19 | コラムと名言

◎『綴方教室』は、たちまち異常な反響を呼んだ

 昨日は、大木顕一郎・清水幸治著『綴方教室』(中央公論社、一九三七)について紹介した。本日は、豊田正子著『定本 綴方教室―附 悲しき記録―』(角川文庫、一九五二)について紹介したい。
 今、机上に、角川文庫版『定本 綴方教室』がある。表紙をめくると、本扉(内表紙)の左上に、エンピツ書きで「100」とある。このことから、駿河台下の「三茶書房」で買い求めたものであることがわかる。おそらく、四〇年以上、前だったと思う(古書価は一〇〇円)。
 奥付には、「昭和二十七年二月二十日 初版発行/昭和二十九年一月二十日 四版発行」、「臨時定価 百円」、「著作者 豊田正子【とよだまさこ】」などとある。
 角川文庫版『綴方教室』は、第一部・第二部・附録の三部構成になっている。第一部には、中央公論社版『綴方教室』の「前篇」で紹介されていた豊田正子の「綴方」二十六篇が、すべて収められている。第二部には、豊田正子著『続綴方教室』(中央公論社、一九三九年一月)に収録されていた豊田正子の「綴方」二十四篇のうち、十二篇が収められている。附録は、「悲しき記録」として括られた三篇の文章である。
 巻末には、「角川文庫編集部」による「解説」がある。本日以降、これを二回に分けて紹介する。

   解 説
 初めの「綴方教室」は、昭和十二年七月、大木顕一郎、清水幸治両氏の編著として、中央公論社から出版された。そしてこの本の半ば以上をとる前篇は、全部豊田正子の作品で占められていた。それで、編者も序文の中で、「この記録は、豊田正子の個人文集と考えて頂く方が適当であるかも知れない」とことわつているほどである。
 この本はたちまち異常な反響をよんで、つぎつぎと版を重ね、劇化されて築地小劇場(山本安英主演)で上演され、さらに東宝で映画化(山本嘉次郎演出、高峰秀子主演)されて、記録的な好評を博した。しかし、劇でも、映画でも「綴方教室」の原作者として豊田正子の名をかかげていたとおり、世評の焦点となつたものは、天才少女豊田正子とその作品であつた。
 当時文学者の間でも、「綴方教室」はひろく問題にされ、新聞や雑誌の上にたくさんの批評と記事があらわれたが、この方面でも問題の中心はやはり豊田正子であつた。それで、あくる昭和十三年〔ママ〕、中央公論社から「続綴方教室」が出版されたが、これはまぎれもなく、豊田正子の著となつていた。
 本書の第一部におさめたのが、初めの「綴方教室」に収録されたもので、第二部の分が「続綴方教室」に集められたものである。それから、附録の「悲しき記録」は今回初めて公表されるものである。【以下、次回】

 文中、「あくる昭和十三年」とあるのは、原文のまま。『続綴方教室』奥付によれば、同書の発行日は「昭和十四年一月八日」である。

*このブログの人気記事 2021・11・30(8位に極めて珍しいものが入っています)

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

多くの豊田正子が出現することを期待する(大木顕一郎)

2021-11-29 00:05:44 | コラムと名言

◎多くの豊田正子が出現することを期待する(大木顕一郎)

 先月の半ば、神保町の某書店の均一台から『綴方教室』(中央公論社、一九三七)を拾い上げた。函付きで、古書価一〇〇円(内税)。
 この本は、豊田正子著『綴方教室』として知られている本、たとえば角川文庫版『定本 綴方教室』(一九五二)、岩波文庫版『新編 綴方教室』(一九九五)などとは、一応、別の本である。ただし、角川文庫版や岩波文庫版の「基になった本」であることは間違いない。
 中央公論社版『綴方教室』の著者は、大木顕一郎と清水幸治のふたりである。同書は、前篇・後篇の二部構成になっていて、前篇は、大木顕一郎が執筆し、後篇は清水幸治が執筆している。
 前篇では、豊田正子の「綴方」が、二十六篇、紹介され、それらについて、大木が詳細な解説をおこなっている。後篇は、清水による「綴方」指導論で、その指導論の中で、児童の綴方多数が学年別に紹介されている。
 本日は、中央公論社版『綴方教室』から、その巻頭にある「前篇に就いて」を紹介してみよう。なお、今回、私が入手した中央公論社版は、一九三九年(昭和一四)四月一八日発行の「第八十一版」である(一九三七年八月三日発行、一九三九年一月一八日改訂七一版)。

 前篇に就いて
 この記録を綴るに当つて、私は私の言葉を極度に緊縮したつもりである。鈴木三重吉先生の「綴方読本」が既に世に出てゐる以上、理論的方面に就いて深入りする必要を感じなかつたからである。随つて、この記録は豊田正子の個人文集と考へて頂く方が適当であるかも知れない。
 豊田正子は、私の長い教壇生活中、稀に誇りうる優秀児童である。彼女は一人で七篇の傑作を「赤い鳥」に送つてゐる。彼女は自分で語らうとすることを「口で言ひ表はす」ことゝ略々〈ホボ〉同じ自由さを以つて、文字に移し植ゑてゐる。語る言葉と、書き綴る言葉との間に迂遠な距離がない。このことは 先づ第一に尊重されなくてはならない。
「赤い鳥」に入選作を出した数多くの児童の中には、技術的方面に於いては或ひは豊田正子に立ち勝つたものも多くあつたであらう。が、表出の自由さ、暢びやかさ、表出態度の大胆、率直、素朴さ等に於いては、その右に出づる者が尠なかつたのではないかと思はれる。彼女の作はその一つ一つが実に貴い人生記録である。生々しい人間苦が如実に描き出されてゐる。中には「赤い鳥」に発表することをさへ憚つたやうな傷ましい作篇もあつた。この記録には、それ等もすべて収めてあるが、その鋭い真実の前には、私自身が首を垂れて教へを乞はなくてはならなかつたのである。それ等数篇は、期せずして作家の領域にまで迫つたものである。凡庸作家の短篇などからは到底学び得ないものを、私はこの幼い作家から教へられたのである。そこには、純情と素朴な筆致に依つてのみ伝へ得られる、恐ろしい真実感が旺溢してゐるのである。
 赤裸々な生活記録のみが児童文の最上位に置かるべきであると。――私は、決して左様に云はうとは思はない。が、何よりも先づ「自分で物を見、自分で判断し、自分の言葉で心から物を云ふ」ことの貴さが教へられなくては、綴方を通しての人間教養なぞは望まれないことになつてしまふ。如何に折目正しい、端正な用語形式の運用が馴致されても、純真な児童の本性が徒らに成人の習慣、因襲の底に埋没していかうものなら、将来への正しい成育が予約されるものではない。
 豊田正子の存在はやゝ特異とも見られる。彼女の作品はやゝ特殊なものであるとも云へる。が、それは、一般児童の到達し得ない境地を示して居るものではない。綴方教育が正しい軌道に乗り、真摯な努力を以て実践さへすれば、数多くの豊田正子が出現するであらうことを、私は深く信じ且つ期待するものである。
    昭和十二年六月    大 木 顕 一 郎

 明日は、角川文庫版『定本 綴方教室』(一九五二)について紹介してみたい。

*このブログの人気記事 2021・11・29(9位に極めて珍しいものが入っています)

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

講演の速記を天下同憂の士に頒つ(河野已一)

2021-11-28 01:37:41 | コラムと名言

◎講演の速記を天下同憂の士に頒つ(河野已一)

 小冊子『世界新秩序と日本』の表紙見返しには、次の一文がある。

 本書刊行に際し、本多先生の絶大なる御厚
意を賜りしことゝ、親友齋藤憲三君が多大の
援助を寄せられたることに対し此処に衷心よ
り感謝の意を表するものである。
     東 亜 連 盟   河 野 已 一

 河野已一は、この小冊子の「編輯兼発行人」である。齋藤憲三については後述。
 
 続いて、編者・河野已一による「序」がある。

     
 昨今、新体制の声は、囂々〈ゴウゴウ〉として天下を鳴動して居る、皇国本来の魂の入つて居る新体制なら固より結構である。問題は新体制に魂が籠つて居るか否かと言ふ事に在る。魂の入つた新体制の確立は、何が故に新体制を必要とするかと言ふ事が普く〈アマネク〉国民に徹底して居なければ駄目である。それが果して全国民に諒解されて居るであらうか、即ち日支事変を契機として、皇国が有史以来未曾有の難局に当面して居ると言ふ漠然たる事は、今日、誰でも知つて居る。けれども内政にしても、外交にしても、何がそんなに困難になつて居るかと言ふ具体的な事になると知つて居る人は案外少ないかも知れぬ。近衛内閣総理大臣が号令するからと漫然新体制に雷同するのでは、協力なる新体制は出来ない。雷同者流が如何に多く集つた所で、それは烏合の衆に過ぎない。決して強力なる新体制ではない。それで未曾有の難局は打開出来ない。故に強力なる新体制の出現は難局の具体的真相を普く国民が理解する琪が先決問題である。若し何等偽らざる現下内外時局の真相が全国民に徹底したりとせば、近衛内閣総理大臣が新体制を天下に号令するを待つまでもなく、必すや国民各自が進んで新体制の確立に奮起するに相違ない。之れは近衛内閣総理大臣も『本来新体制の如きは、上から言はずとも、下から盛り上がるべきものである』と認めて居る所である。然かも今日、新体制が下から盛り上がらぬ所以は、国民が非常時局の真相に未だ通暁せぬ一面があるからに外ならぬ。されば即今の急務は、時局の真相を能ふ〈アタウ〉限り全国民に徹底せしむるにある。
 皇国未曾有の難局は、其の由来する所遠く且つ深し。又内治、外交の全般に亘つて居る。併しながら其の根本は所謂る外交国難である。詳言すれば、日支事変を契機とする東亜新秩序の建設、東亜新秩序の建設を繞る皇国と列強との国際関係、第二世界大戦と東亜新秩序建設との国際関係、更に又東亜共栄圏確立に伴ふ国際関係、即ち是れである。此の複雑怪奇を極むる多辺的外交が、噂爼〈ソンソ〉の間に然かも円満無碍〈ムゲ〉に調整出来れば問題はない。それが不可能で或は遂に干戈相見ゆるに至らねば、解決出来ないかも知れぬ。そこに未曾有の外交困難はある。皇国未曾有の難局が横はつて居るのである。
 此の時、我が外交界の大先輩本多熊太郎先生が本年の七月初めに編者二十年来の親友齋藤憲三君(秋田県平沢町出身)の希望を容れ、初めて秋田県下に足跡を印せられ前後十日間各地に於て時局講演会を開催し数万の聴衆に深き感銘を与へられたのである。編者も亦行〈コウ〉を共にし先生の熱血に浴し所感を新たにした一人である。即ち七月八日秋田魁新報社主催の講演会に於て講述せられたる所を速記せるものと、本年八月大阪毎日、東京日々両新聞紙上に公にされた外交論策とを見るに、共に我が外交国難の由来と現情とを具体的に語られ、皇国外交の進路を示唆された殆ど唯一の論策である。勿論外交の事たる其の一言一句が国際関係に至大の影響があるから、本多先生は特に慎重なる言辞と周到なる用意の下に述べられたるも、其の聴講者と読者は、皇国外交国難の由来と現情と進路とを明白に了解した事であらう。而して新体制の急務且つ緊要を愈々痛感した事と信する。斯る有益なる外交論策を、単に一場の講演、一片の紙上論に終らしむるは如何にも忍びないから、茲に該講演の速記、大毎、東日両紙上の論策を併録して、広く天下同憂の士に頒つ事とした。是れ本多先生の所論を一人でも多くの人に読んで戴き、皇国外交国難の実情と進路とを知つて貰ひ、而して皇国本来の魂の入つた新体制の確立に協力邁進して貰ひたいからである。是れ又新体制に即応する微意に外ならぬ。
  昭和十五年九月          編 者 識

 表紙見返しの一文、および「序」に齋藤憲三の名前が出てくる。齋藤憲三(一八九八~一九七〇)は、東京電気化学工業株式会社(現・TDK株式会社)の創業者。
 本多熊太郎の講演招聘、小冊子の発行などにあたっては、おそらく、齋藤から資金提供を含む支援があったと推測される。
 なお、「序」に、「大毎、東日両紙上の論策を併録して」とあるが、この論策とは、「外交建直しに就ての若干の考察」を指す。これは、大阪毎日新聞、東京日日新聞紙上に連載された論文である(一九四〇・八・二六~三一)。当ブログでは、この論文も紹介してみたいと思っているが、とりあえず明日は話題を変える。

*このブログの人気記事 2021・11・28(8・9・10位に極めて珍しいものが入っています)

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

秋田県西馬音内の「矢崎新聞店」は健在

2021-11-27 03:06:26 | コラムと名言

◎秋田県西馬音内の「矢崎新聞店」は健在

 本多熊太郎講述の小冊子『世界新秩序と日本』については、今月一七日のブログで、ひと通りの紹介をしておいた。本日は、その補足である。
 この小冊子の表紙には、「熨斗(のし)」マークの朱印が押されており、その下に、黒色のスタンプで「秋田県西馬音内町/矢崎新聞店」とある。秋田県西馬音内町で秋田魁新報を販売していた矢崎新聞店が、顧客に進呈したものであろうと推測した。
 そこで、「西馬音内 矢崎」を、インターネットで検索してみた。いきなり、「西馬音内販売所/矢崎 竜文(やざきたつふみ)」という記事がヒットしたのには驚いた。
 同記事によれば、矢崎竜文さんは、矢崎新聞店(秋田魁新報西馬音内販売所)の「曾祖父から数えて4代目の店主」だという。同記事には、古風な店構えの新聞店の写真もある。正面に「秋田魁新報毎日☆新聞/矢崎新聞舗」の看板がかかり、右側には「秋田魁新報/西馬音内販売所」の案内板が見える。
 なお、「西馬音内」は、「にしもない」と読む。現在では、雄勝郡羽後町(おがちぐんうごまち)の大字だが、一八九七年(明治三〇)から一九五五年(昭和三〇)の間は、雄勝郡の「西馬音内町」であった。【この話、続く】

*このブログの人気記事 2021・11・27(8位の後藤朝太郎は、石沢誠司さんのブログの影響によるものでしょう)

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

本多熊太郎とクーデンホーフ=カレルギー

2021-11-26 04:44:22 | コラムと名言

◎本多熊太郎とクーデンホーフ=カレルギー

 本多熊太郎という人物については、よく知らなかった。ウィキペディア「本多熊太郎」の項の冒頭には、次のような説明がある。

本多 熊太郎(ほんだ くまたろう 明治7年(1874年)12月8日~昭和23年(1948年)12月18日)は、明治・大正・昭和の外交官、太平洋戦争時の中華民国大使、東條内閣の外交顧問。戦後はA級戦犯として逮捕された。

そのあとに、「来歴・人物」として、次のようにあった。

東京法学院(中央大学)法科在学中の明治27年(1894年)5月に外務省留学生試験合格、翌年の明治28年(1895年)8月に外務省書記生試験(専門職)に合格し、外務省入省。明治34年(1901年)、小村寿太郎外相の秘書官となり、日露戦争のポーツマス講和会議に随行。後藤新平の満鉄総裁当時、北京公使館の二等書記官となった。大正7年(1918年)、スイス公使、大正13年(1924年)からドイツ大使を務めて退任。ドイツ大使を務める間、欧州統合論の主導者クーデンホーフ=カレルギー伯と親交を結び、伯の論評を読んで報告を上げてきた外交官鹿島守之助(当時は永富守之助。のち鹿島建設会長、戦後自民党議員)に伯を紹介した。
昭和15年(1940年)、松岡洋右外相に起用されて汪兆銘政権下の南京に中国大使として赴任。昭和19年(1944年)に東條内閣の外交顧問に就任。
昭和20年(1945年)12月、連合国より第三次戦犯指名され、A級戦犯として逮捕され巣鴨刑務所に収監。その後、病気により釈放。

 インターネット情報によれば、本多熊太郎は、汪兆銘政権下における初代駐支大使で、親任されたのは、第二次近衛内閣時代の一九四〇年(昭和一五)一二月七日(従三位勲一等 本多熊太郎/任特命全権大使中華民国駐剳被仰付)。東條内閣の外交顧問に就任した月日は未詳。
 本多熊太郎がA級戦犯に指名された理由としては、汪兆銘政権下の駐支大使、東條内閣の外交顧問といった経歴が大きかったと思う。しかし、彼がA級戦犯に指名された理由が、そうした経歴だけだったとは思えない。「現前の世界情勢と日本の立場」と題された講演(一九四〇・七・六、秋田市)によっても明らかな通り、本多は、対英米開戦の前から、筋金入りの反英米論者であり強硬論者であった。そうした彼の思想性や言論活動もまた、A級戦犯に指名された理由となった可能性がある。
 なお、ウィキペディア「本多熊太郎」によれば、本多は、「欧州統合論の主導者クーデンホーフ=カレルギー伯」と親交を結んでいたという。リヒャルト・クーデンホーフ=カレルギーの著書『パン・ヨーロッパ』を、『汎ヨーロツパ』(国際連盟協会、一九二七)として日本語訳したのは永富守之助だったが、その永富守之助(後の鹿島守之助)を、リヒャルト・クーデンホーフ=カレルギーに紹介したのは、ドイツ大使時代の本多熊太郎だったという。
 ウィキペディア「本多熊太郎」は、参考文献として、戸澤英典氏の「クーデンホーフ・カレルギーと鹿島守之助 (1)」(ホームページ『RCK通信』)を挙げているが、この文献は、「同(2)」、「同(3)」と併せて読むべきである。それらを併せ読むと、「大東亜共栄圏」という発想の原点は、リヒャルト・クーデンホーフ=カレルギーの「パン・ヨーロッパ」にあったのではないかと思えてくる(戸澤英典氏がそのように言っているわけではない)。ちなみに、永富守之助には、『汎亜細亜運動と汎欧羅巴運動』(北文館、一九二六)という著書があるという(未見)。
 明日は、小冊子『世界新秩序と日本』(東亜連盟、一九四〇年一〇月)について補足する。

*このブログの人気記事 2021・11・26(10位に極めて珍しいものが入っています)

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする