エリクソンの小部屋

エリクソンの著作の私訳を載せたいと思います。また、心理学やカウンセリングをベースに、社会や世相なども話題にします。

いまこそ、「自分の感じに従って、行動を始める」時ですよ。

2015-08-30 05:38:51 | エリクソンの発達臨床心理

 

 

 
≪私≫は、大事な母なる≪他者≫が繰り返し継続的に世話してくれるから生まれるのです。第六弾 
  もうすでにお判りでしょうね。ここでもエリクソンとフロムはシンクロナイズドしているんですね。エリクソンはが「日常生活の中の礼拝」を大事にしますよね。それ...
 

 
 以前このブログで「「腑に落ちない」をゴマ化さない 吉本隆明さん」と題して、第二次世界大戦を日本が戦ってる時、戦おうとしている時に、吉本隆明さんが感じた「腑に落ちない」感じを考えたことがありましたね。覚えておられますか? 吉本隆明さんは、その「腑に落ちない」感じをホッタラカシにしておいた。それで、あんなにも愚かしくも、残虐な戦争に巻き込まれてしまった訳ですね。敗戦後、戦争中の反省の一番として、タイトルにあったように、「腑に落ちない」感じをゴマカサナイことを、吉本隆明さんは、ご自分の思想形成の要にした訳ですね。

 その吉本隆明さんの影響を非常に受けていると公言する、高橋源一郎さんが、今月の朝日新聞の「論壇時評」で、女性や高校生や漫画家たちが、感性が、男や大人や会社員よりも強い人たちですが、戦争に突入しかねない時代状況を敏感に感じて、それに「なんか変だ」と感じてること、そして、声を挙げていることを、” 良い感じだ “と、記してましたね(「「外注」した政治 戦後70年 いま取り戻す」、『朝日新聞』12版▲ 27, 8, 2015, p.17)。これも基本は、吉本隆明さんの「腑に落ちない」感じをゴマカサナイ、ということに通じてますね。

 「自分の感じに従って、行動を始めること」。「腑に落ちない」感じをゴマカサナイで、女性たちや高校生たちや漫画家たちが発言し、行動をしていることですね。それは心理学的に、何かあるんでしょうか?

 始めることは、英語で言えば、beginやstartだと思っている人もいるでしょう。もちろん、これは間違いじゃぁ、ありません。でもね、それだけじゃぁ、ないんですね。もう1つ、initiateもあります。イニシャル initialと言えば、名前の最初の文字でしょ。その動詞形のinitiateには、何かを始める意味があります。あるいは、◎◎会や組織に「入る」場合も、initiateを使うようですね。この形容詞 initiative 「自分の感じに従って、行動を始めること」を心の発達の重要な転機としたのが、エリクソンでしたね。a sense of initiative 「自分の感じに従って、行動を始めること」は、「自主性」とか「積極性」と翻訳したんじゃ、分かりませんでしょ。エリクソンは、人生は、≪私≫という感じ a sense of ' I ' の展開と考えたわけですから、自分が感じていることを何よりも大事にしたんですね。幼児後期、3才位から6才位まで、幼稚園の頃ですね、そのころに身に着けたほうが良い心理特性が、「私の感じに従って、行動をはじめるのが良い感じ」a sense of initiativeですね。

 これについても、以前このブログ「国立市から 改訂版」で取り上げています。吉田都さんが吉田都さになれたのが、まさに、私の感じに従って、行動をはじめるのが良い感じ」a sense of initiative のおかげでした。

 私どもも、真の日本市民になるために、いまこそ、「私の感じに従って、行動をはじめるのが良い感じ」a sense of initiativeを発揮する時ですね。

 

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ルター誕生

2015-08-29 11:45:45 | アイデンティティの根源

 

 自由自在に生きたいものですね。

 Young Man Luther 『青年ルター』p.221の 下から7行目途中から。

 

 

 

 

 

ルターがロマ書講義の準備ノートで言ってます。そこでルターは大学教授として円熟してきましたし、独断者であることもハッキリしてきました。「内省がよくよくできれば、真に謙遜になれます。真に謙遜になれば、真実が分かります。真実を知れば、スピリチュアルに自ずからなります」。同時にルターが、この激しい怒りの傷を、(怒りの)神の性質を変えることによって、上手く癒すことができます。すなわち、この世の父親のように気分屋で、幼い子どもにとっては理解できない存在ではなくて、神は、ira misericordiae ラテン語で「激しく怒るけど、気前が良い」(本当は気前が良い、激しい怒り)、という性質を手に入れたんですね。このように考えたから、ルターは、神が「父なる神」になることを認めることができましたし、神が私どもを救ってくださることも分かったんですね。

 

 

 

 

 

 

 怒り、それも、激しい怒り、と言ったら、嫌なもの、耐えられなたもの、我慢ならないもの…とルターはずっと思ってたでしょうね。父親はその種の激しい怒りを、来る日も来る日も、朝昼版に関わらず、ルターにぶつけていたんですからね。

 神の激しい怒りも、「うちのおやじと同じだろぉ」と始めは感じてたでしょうね。ところが、思ってもないことだったでしょうけれども、「その激しい怒りが、気前の良さ、温かい気持ちと結びついてたんだぁ」と気付きが与えられた。大声で泣いたでしょうね。もちろん、嬉し泣きですよ。それが、ルター誕生の瞬間であり、ルターが神に出会った瞬間でしたね。

 

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仲間はずれにするのも不幸、仲間はずれにできないのも不幸

2015-08-29 10:17:34 | エリクソンの発達臨床心理

 

 いろんな人との仲良くする。それに異論をはさむ人って少ないんじゃないかしらね。でも、それは「ただで出来るもんじゃぁ、ない」んですね。アイソレーション 「異性や異世代や異なる立場の人とやり取りせず、コントロールしようとしたり、なるくべ関わらずにおこう、とすること」よりも、intimacy インティマシー 「異性や異世代や異なる立場の人たちと、やり取りのある関係ができること」の方を、選択するという主体的な心構えと行動が必要だからです。

 The life cycle completed 『人生の巡り合わせ、完成版』、p71の第2パラグラフから。

 

 

 

 

 

 若者が、intimacy インティマシー 「異性や異世代や異なる立場の人たちと、やり取りのある関係ができる」ようになったり、人と自分を大事にする気持ち、になったりすることを邪魔するお邪魔虫、それが、exclusivity エクスクラッシィヴィティ 「仲間はずれにしたい気持ち」なんですね。このexclusivity エクスクラッシィヴィティ 「仲間はずれにしたい気持ち」は、形の上から言っても、働きの上から言っても、いい大人になってから出てくる  rejectivity リジェクティヴィティ 「大事にする相手の仲間から、仲間はずれにしたい、底意地の悪い気持ち」と深~い関係にあるのも当然です。また、exclusivity エクスクラッシィヴィティ 「仲間はずれにしたい気持ち」の中には、intimacy インティマシー 「異性や異世代や異なる立場の人たちと、やり取りのある関係ができること」になくてはならないものであるのは、rejectivity リジェクティヴィティ 「大事にする相手の仲間から、仲間はずれにしたい気持ち」が、generativity 「次世代の人や事を、自分が損しても、育むこと」になくてはならないのと、同じです。でもね、exclusivity エクスクラッシィヴィティ 「仲間はずれにしたい気持ち」も、rejectivity リジェクティヴィティ 「大事にする相手の仲間から、仲間はずれにしたい、底意地の悪い気持ち」も、非常に破壊的ですし、ましてや、自己破壊的です。というにも、1人も仲間はずれにできず、1人も大事にする相手の仲間から、仲間はずれにできないでいると、過剰に「自分はダメだぁ」と思う結果になるからですね(あるいは、原因になる場合もあります)。それは、1人も仲間はずれにできず、1人も大事にする仲間から仲間はずれにしできなければ、自分自身を許せなくなってしまうのと同じです。

 

 

 

 

 仲間はずれにしたり、大事にしない相手がいることは、不幸です。でもね、仲間はずれにできなかったり、大事にしない相手にできなかったりするのも、別の意味で不幸ですね。いずれも、自己コントロールしていないからですね。無意識の暴力が働いている点では、2つとも全く同じです。前者は、無意識の暴力が他の人に向いている場合です、後者は、無意識の暴力が自分自身に向かっている状態です。

 大事なのは、みんなを仲間にしたい、みんなを大事にする仲間にしたい、と意識でコントロールすることです。たとえそれが完全にも実現しないことであってもね。

 

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昼夜逆転を治そうとしちゃ、ダメだ!! 改訂版

2015-08-29 09:28:09 | エリクソンの発達臨床心理

 

 

 
世俗生活=宗教の本質
  制度や法律は、それを創り出した精神が必ずあります。しかし、制度や法律が運用されだすと、運用そのものに自動操縦、オートパイロットの性格がありますから、も...
 

 夜更かしして、朝起きられない。いつまでもゲームをしていて、昼夜逆転している。そんな子どもを前にしたら、どうします? 「何とか生活リズムを整えてもらおう」としませんか? あなたが親や教員や児童施設の職員でしたら、その子が「普通の生活をする方が良いだろう」と思いますでしょ。「それが一番やってはいけないことだ」、「精神医学的には禁忌だ」と言われたとしたら、「そんな馬鹿なぁ!」と言われるかもしれませんね。ですが、「昼夜逆転を治そうとしちゃ、ダメ!

 ビックリしました?

 でも驚かそうとしているんじゃぁないんですね。精神科医でも、分かってないことに、私の方が驚かされているんですね。日本の精神医学は、非常に遅れています。立派な精神科医(たとえば、王子クリニックの石崎朝代先生や京大の山中康裕先生)も具体的に知ってますから、全て精神科医が遅れていると言うよりも、日本の精神科医の平均値が、あまりにも低すぎる、ということですね。

 何のことかと言いますとね、それは愛着障害ですね。愛着障害は、人間の発達の最初で躓いている子どもですし、大人です。その人が、5才でも、15才でも、35才でも、65才(愛着障害が治療されずに、65才になるのは、難しいでしょうけれど、つまりそれまでに死んじゃうケースが多い)でも、心は赤ちゃんだ、ということです。さまざまな困難が予想されます。

 愛着障害の子ども(大人も含むが、以下省略します)は、赤ちゃんの時に母親との関係で身に着けるべき愛着がありません。エリクソンの言葉で言えば、根源的信頼感がない訳ですね。むしろ、根源的不信感の方に大きく傾いている状態です。愛着や信頼がないと子どもはどうなるのか? それはいろんなケースがありますが、日課やルールや片付けが出来ません。時間でも、空間でも、人間関係でも、秩序立てることができないんですね。なぜなら、最も根源的な秩序である愛着関係、根源的信頼感がないからです。

 ですから、時間的秩序、生活習慣、日課の面から言えば、愛着障害の子どもは、時間通りに何かをすることができません。学校生活ばかりではなく、施設での生活など、集団生活には必ずといっていいほどある、日課はできません。「起床時間は6時」、「1時間目は算数」、などと言われても、出来ません。大人が見張っている場合はやる場合がありますけれども、見てなければ、自分からはやりません。

 また、人間関係的秩序である、ルールが守れません。校則、施設の決まり、…。それも守れません。

 空間的秩序、片付けもできません。机の中はゴチャゴチャ。ランドセルの中もごちゃごちゃ。ロッカーの中もごちゃごちゃ…。

 これじゃぁ、周りの大人も困りますから、愛着障害の子どもを前にすると、「時間を守りなさい」、「ルールなんだから、守りなさい」、「片付けなさい」…と言いたくなりませんか? でもそれを言ってはいけないんですね。「正しいこと(日課やルールなど)を愛着障害の子どもに押し付けることは、禁忌」だからです。これは、日本の多くの精神科医でも知らないんですね。日本の精神科医は何やってんですかね。

 「アメリカ精神医学会(American Psychiatric Association)は、『正しいことを押し付けるやり方は、愛着障害には、禁忌 contraindicated である、との臨床的な合意が強力にできてます』との立場を明確に表明しています。」(『愛着セラピーの手引き The attachment therapy companion』, New York : Norton,2012, p.155)

 大事なのは、根源的信頼感・愛着を回復する、陽気で楽しいセラピーです

 

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自由自在に、いまを生きる

2015-08-28 07:51:20 | アイデンティティの根源

 

 「あしあと」の詩はいかがでしたか? ビーチのお土産にどうぞ。

 Young Man Luther 『青年ルター』p.221の第4パラグラフから。

 

 

 

 

 

 ルターの最初の説教を研究すると、ルターが深~い強迫的な葛藤から自らを癒したとき、いまを生きることの根っこを、宗教的、内省的な方法で、自由自在に、ほとんど無垢な形で、生きることが出来るようになった、と分かりますね。

 

 

 

 

 

 自由自在に、いまを生きる。素晴らしいですね。それは昨日の武村牧夫先生のお話のように(禅とエリクソン)、「悟りをごく普通の生活をする中で、生かすこと」ですね。極々日常生活を生きていながら、そこに根源的信頼が豊かにあり、自由自在さがあり、大らかさと、ユーモアセンスがあります。それは必ず、陽気で楽しい雰囲気の生き方になりますもんね。

 

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