エリクソンの小部屋

エリクソンの著作の私訳を載せたいと思います。また、心理学やカウンセリングをベースに、社会や世相なども話題にします。

子育てから国際政治まで

2015-08-20 07:51:47 | エリクソンの発達臨床心理

 

 rejectivity リジェクティヴィティ 「大事にする相手の仲間から、仲間はずれにしたい、底意地の悪い気持ち」が、あらゆるイジメ、あらゆる差別、あらゆる心の病、あらゆる戦争の元凶なのが、ハッキリ分かりますでしょ。

 The life cycle completed 『人生の巡り合わせ、完成版』、p69の最初のパラグラフ、下から4行目途中から。

 

 

 

 

 

(とにかく、私どもの若いクライアントが、どのようにして、いろんな世代から、rejectivity リジェクティヴィティ 「大事にする相手の仲間から、仲間はずれにしたい、底意地の悪い気持ち」をぶつけられる相手になっちゃうのか? をハッキリさせるのが、あらゆるケースで、課題になります。問題なのは、「子どもに、『大事にする相手の仲間から、仲間はずれにしたい、底意地の悪い気持ち』をぶつける母親」だけではありません。)

 

 

 

 

 そりゃそうですね。子育てでは、rejectivity リジェクティヴィティ 「大事にする相手の仲間から、仲間はずれにしたい、底意地の悪い気持ち」をぶつけるのが、母親になりますけど、それは子育てにおいての話でしょ。学校で、教員が生徒に、rejectivity リジェクティヴィティ 「大事にする相手の仲間から、仲間はずれにしたい、底意地の悪い気持ち」をぶつければ、それはそれで問題です。保育所で、保育士が、rejectivity リジェクティヴィティ 「大事にする相手の仲間から、仲間はずれにしたい、底意地の悪い気持ち」を、幼い子どもにぶつけれは、それも問題。会社で、上司や同僚が、rejectivity リジェクティヴィティ 「大事にする相手の仲間から、仲間はずれにしたい、底意地の悪い気持ち」を部下や同僚にぶつければ、それも問題。日本が、中国に、rejectivity リジェクティヴィティ 「大事にする相手の仲間から、仲間はずれにしたい、底意地の悪い気持ち」をぶつければ、それも問題でしょ。ですから、rejectivity リジェクティヴィティ 「大事にする相手の仲間から、仲間はずれにしたい、底意地の悪い気持ち」は、子育てから国際政治まで、射程距離のある、大事な課題です。

 

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戦争と知的障害児たち 忘れちゃいけない歴史 改訂版

2015-08-20 07:18:19 | エリクソンの発達臨床心理

滝乃川学園本館 現在は「石井亮一・筆子記念館」東京都国立市谷保6312

 

 
アーメン、≪話し言葉≫がいまここで≪出来事≫になります!
  「言っていること」と「やっていること」が一致していること。子どもの前では、最も大事なこと。 昔は、大学にもそう言う人物がいましたね。丸山眞男教授、...
 

 さっき、「ハートネットTV」で、大島藤倉学園のことをやってました。川田仁子さんも出てましたね。あの人も長生きですね。

 大島藤倉学園、と言われても、知らない人もいることでしょう。日本で4番目に古い知的障害児施設です。今晩も横道にはずれます。日本で一番古い知的障害児施設は、もともとは、「聖三一弧女学院」と呼ばれた、現在の「滝乃川学園」です。国立の実家の3軒隣りがこの滝乃川学園ですが、最初は、不忍池近くの、当時の言い方で言えば「下谷区(したやく)西黒門町」の、日本初の女医、荻野吟子の家にありました。1991年、明治24年岐阜あたりで濃尾大震災があり、多くの被災者が出ました。親を失った子どももたくさんいました。女の子たちは、売春組織、ヤクザに連れ去られたらしい。男の子たちも、弱みにつけ込まれたらしい。それに義憤を覚えた、たくさんのクリスチャンや仏教徒らが、その救済に全国から濃尾に馳せ参じ、たくさんの孤児院が出来ました。当時立教学院(現在の立教大学)を出たばかりの石井亮一は、立教女学院の教頭でしたから、16人の女の子を助けました。その中の2人が知的障害児だったと言います。それが最初の知的障害児施設、滝乃川学園の誕生物語です。その最初の16人の1人、「戸所(とどころ)のお婆さん」は、我が家によく遊びに来ていましたっけ。

 2番目に古いのが、脇田良吉が京都に設立した、白川学園。3番目に古いのが、岩崎佐一が大阪に設立した、桃花塾(とうかじゅく)、4番目に古いのが、この川田貞次郎が伊豆大島に設立した藤倉学園ですね(津曲祐次,2011,滝乃川学園百二十年史)。すべて民間施設です。

 先の番組では、1944年、昭和19年、伊豆大島が軍事要塞化しようとする時に、藤倉学園が陸軍に取り上げられ、清里の清泉寮(keep)に疎開した話が出てきます。30人ほどの利用生の内、一年余りの疎開生活の中で、10人の利用生が栄養失調で亡くなった。戦争は、弱い立場の知的障害児を「飢え」という形で、殺した、という話です。

 私は、滝乃川学園に関わった者として、それだけではない、とハッキリと言いたので、今日このブログを書いている訳ですね。

 こっちゃん(山中梢さん)。北九州出身の女性で、軽い知的障害がありました。滝乃川学園に昭和初期(1928年、昭和3年?)に入所し、成人してからは、厨房で調理員として働いていました。後に施設を出て、我が家のアパートに暮らしました。そのこっちゃんから直接聞いた話です。滝乃川学園にも「赤紙」が来たんですね。戦争は、知的障害の人も、戦場に連れていくわけです。こっちゃんによると、滝乃川学園の利用生の内、「2人(の利用生)が戦争に行き、帰ってこなかった」と言います。これは、津曲祐次先生がまとめた、『百二十年史』にも出てきません。

 知的障害者も、戦場に連れてかれて殺されるのが、戦争です。私どもは、こんなひどい歴史があったことを忘れてはならないでしょう。

 

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命は、やり取りの中で、人を大事にしてこそ

2015-08-19 08:07:31 | アイデンティティの根源

 

 「ねばならない」と思っていることをやっても、心からの平安が得られません。人から、あるいは、神様から、価値を認められて、初めて、心からの平安が得られるものです。その関わりが、「相手が得する、一方的な約束」なのですね。

 Young Man Luther 『青年ルター』p.219の第3パラグラフの5行目途中から。

 

 

 

 

 

ルターは聖書の言葉を、ゲルマン人らしく言い換えをしているものの1つで言ってます。「奇跡を起こして、全てのトルコ人を絞め殺しても、人を大事にすることに対して的外れをやれば、何の得があるでしょうか?(何の得もありゃしませんよ)」と。

 

 

 

 

 

 これは、「人は、たとえ全世界を手に入れても、自分の命を失ったら、何の得があろうか」(新約聖書の「マタイによる福音書」第16章26節)の言い換えです。宗教改革前夜の15世紀末は、オスマントルコがヨーロッパに攻め込んでいた時代です。粗野なゲルマン人ならではの、トルコ人皆殺しの言葉も出てきます。でも、「命を失う」が、「人を大事にすることに対する的外れをやる」という言い換えは、非常に的を得た言い換えになっていると思います。命とは、個人に帰属しているように見えて、人間は社会的存在の部分が大きいですから、人と人のやり取りの中で、命の響き合いがないと、「自分」とは言えないからですね。仙人のような暮らしをしている人でも、ごく少数の人とは、命の響き合いがあります。命と命の響き合いは、ベタベタした関係ではありません。離れていても、心のやり取りがある信頼し合う関係です。

 ベタベタはさっさとやめて、ピスティス(信頼)に生きましょう。

 

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日本の学校が、世界一イジメが多いわけ

2015-08-19 06:49:31 | エリクソンの発達臨床心理

 

 rejectivity リジェクティヴィティ 「大事にする相手の仲間から、仲間はずれにしたい、底意地の悪い気持ち」の幅によって、暮らしが全く違います。その幅が狭い方が、大事にする仲間が多い。その方が互いに認め合うことができます。フィンランドはじめ北欧やオランダのような社会です。その幅が広いと、大事にする仲間が少なくなります。日本だと、学齢前の子ども、何らかの障害のある人、認知症の高齢者、女性、非正規雇用の人、若者、などは、その仲間に入れません。現実に非常に困難な生活を強いられている訳ですね。

 The life cycle completed 『人生の巡り合わせ、完成版』、p68の最後の行から。

 

 

 

 

 

実際、universal caritas 「人の痛みを自分の痛みにできる、大きな優しさを全人類に示すこと」がスピリチュアルな考え方として、発達支援を幅広い子どもに提供するのに、究極的に役立つのは、まさにここですね。ですから、caritas 「人の痛みを自分の痛みにできる、大きな優しさ」が一時でもなくなるのは、rejectivity リジェクティヴィティ 「大事にする相手の仲間から、仲間はずれにしたい、底意地の悪い気持ち」が、内輪の生活でも、社会生活でも、幅を利かすからなんですね。rejectivity リジェクティヴィティ 「大事にする相手の仲間から、仲間はずれにしたい、底意地の悪い気持ち」は、生きる目標や「良い子」の目標に相応しくないと思われる者は、多かれ少なかれ、筋書き通り、多かれ少なかれ、情け容赦なく、力で押し潰すことになります。これは、物理的に、もしくは、道徳的に、子どもをイジメることになりかねません。あるいは、道徳的な偏見として、家族や社会で、さっきの目標に相応しくない者たちを、イジメることになる場合もあります。もちろん、これが、一塊になって、「敵側の」たくさんの外国人達に向けられる場合もあります。

 

 

 

 

 

 さっきのブログ「エバる父親と、「よい子」の悲劇」とも共通してますね。ですから、あらゆるイジメ対策は、深い心理教育を欠いては、不可能なことが分かりますね。たんに、「〇〇しましょう」だとか、「△△は止めましょう」だとか、言っても、何の効果もありません。それで済ませているのは、無意識の圧倒的な暴力のことを全く知らないので、イジメは、意識でコントロールできる、と誤解してんですね。無意識の圧倒的な暴力のカラクリをご存じない。

 ですから、イジメを本気でなくそうとしたら、rejectivity リジェクティヴィティ 「大事にする相手の仲間から、仲間はずれにしたい、底意地の悪い気持ち」についてと、無意識の圧倒的な暴力のカラクリについて、ジックリと学ばないとね…。

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エバる父親と、「よい子」の悲劇

2015-08-19 03:29:08 | エリクソンの発達臨床心理

 

 
あなたの人間関係の元型
 短い夢のストーリー2013-08-18 02:31:39 | エリクソンの発達臨床心理&...
 

 今エリクソンの翻訳で、「ねばならない」が多い「真面目人間」と、rejectivity リジェクティヴィティ 「大事にする相手の仲間から、仲間はずれにしたい、底意地の悪い気持ち」の話が進んでますね。その話の延長の話をしたいと思います。その一つの典型の、「エバる父親」のお話。

 そんなことを記そうと思ったことの1つは、佐々木正美先生の論文を読み直したことです。横道好きの私ですから、佐々木正美先生のことにも触れますね。佐々木正美先生は、あまり公の席ではおっしゃいませんが、私ども無教会の仲間です。八王子の無教会伝道者(お名前が思い出せない)が、佐々木正美先生の奥さんの父親です。しかも、佐々木正美先生と言ったら、TEACCHプログラムの紹介者で、自閉症の臨床医です。しかも、エリック・エリクソンを臨床的に理解し、紹介している方ですね。いろんな点で学び続けたい方です。

 その佐々木正美先生の論文「子どもたちのための医療福祉」(川崎医療福祉学会誌 増刊号,2007, 27-37)の中に、先の「エバる父親」が出てきます。この論文は、エリック・エリクソンの発達を、日常的な言葉で、具体的に教えてくれるものです。どういうところに、「エバる父親」の話が出てくるのかと言えば、少年犯罪の実証研究について触れる件です。世間を震撼された殺人事件、傷害致死事件を犯した少年の、生い立ちや家庭環境を調べた研究です。その結果、いくつもの重大事件に共通するメカニズムに、この「エバる父親」がある、という訳です。正確には、「父親の『大人性の欠如』である。未熟さ、父性の乏しさ、権威を保とうとして威張る、そのくせ子どもと正面から向き合えない」父親(p.34)です。中身が空っぽの父親です。私もこの手の人を結構具体的に知ってんですね。一言でいえば、他者と対等なコミュニケーションができないので、エバる、エバってコントロールできない場合は、裏から手を回してもコントロールしようとする人です。「〜はだめ」、「~をしなさい」と禁止と命令を言ったり、口裏を合わせて、子どもを自分(達)に “都合に良い方向“ に持って行こうとする。割に教員に多いタイプでしょうね。その人自身が「よい人」、「会社に “都合に良い方向“ に動く人」を無意識裡に演じているので、子どもにも(教員ですと、自分の子どもだけではなくて、学校の子どもにも)、「よい子」を演じることように、無意識裡に強制するわけです。実際、凶悪事件を起こすまで、少年たちは、スポーツでもお勉強でも、「よい子」をやり続けて、親の期待(その人が教員の場合は、教員の期待)に応え続けていたわけですね。

 何故でしょう?そんな「よい子」が、世間を震撼されるような凶悪事件、殺人事件を起こすのはなぜでしょう。それは、コミュニケーション、対等なやり取りが出来ず、コントロールしようとすれば、相手の子どもに対して、「お前は、私にコントロールされなければ、生きられないダメ人間です」と毎日何十回も繰り返し言っているに等しいからです。ですから、その子は「ダメ人間」として凶悪事件をやらざるを得ないんですね。無意識の圧倒的な暴力の恐ろしさ、無意識の圧倒的な暴力の餌食になった悲劇です。

 

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