山崎豊子さんの「礼拝」
他者感覚=自己中心+他者中心 儀式化=楕円形 : 儀式化のまとめ その12013-07-28 01:18:15 | エリクソンの発達臨床...>続きを読......
津久井やまゆり園の事件。衝撃的でしたね。ニュースでは、大島衆院議員議長への手紙、犯行の詳細、本人の勤務履歴は報道されます。あるいは、大麻によって「一時的に狂った」から、今回の犯行に至った? というニュアンスの報道もあります。何かに原因を特定しないと、多くの人が抱いた不安に決着がつかないからだろうと感じますね。
不謹慎かもしれませんが、今回の津久井やまゆり園の犯人の犯行を1つの「遊び」と捉えたいと、私は考えています。それはこの「犯人」の心理を、サイコセラピストとして考え、その考えを、このブログの読者にお読みいただいて、心の闇とその再生の可能性をご一緒に考えたいと願うからです。
「遊び」は、エリクソンが常々言うように、自分がモデル状況を創り出して、自分の問題に折り合いをつけるための実験の子ども版です。子どもは、遊びを通して、自分が解決できないでいる心の葛藤に、何とか折り合うことができる道を付けたい、と願うものなんですね。
今回の事件は、何十人もの知的な障害者が、首を深く刺されて、亡くなった事件でしたね。首は、頭と胴体を繋ぐ要です。私は、首を刺したことに、この犯人の「心の葛藤」か表現されていることを感じます。
今回の犯行を、「犯人」が受け身で体験していたことを能動的に再体験して、過去の受け身で体験してきたことに折り合いをつけようとした試み、と見たらどうでしょうか? また、この「犯人」は、幼いころの事実は分かりません。ですから、以下に記すことは、あくまでも、憶測に基づく仮説でしかありません。
エリクソンは、一歳半から三歳くらいの子どもの子育てについて述べるところで、人が「恥知らず」になることと「人殺し」のことを取り上げているところがあります。いま、エリクソンの言葉をご紹介しているChildhood and Society 『子どもの頃と社会』のp.253です。昨日取り上げたところの1ページ前のところに出てくんですね。
この「犯人」の父親は小学校の教員だと言いますね。私も小学校の教員とは長年付き合いがありますが、少数の例外を除いて、「教えたがり」、「正しいことを押し付けるタイプ」が非常に多い。この「犯人」も「正しいことを押し付けられて」育ったと想像します。
そこで、エリクソンの言葉
「恥をかかされ過ぎると、礼儀正しくはなりません、むしろ、反抗的な恥さらしにならないまでも、コッソリと、事をなそうするようになります。…小さな子どもが、耐えられない位に恥をかかさせると、(「目くらになれ」というような憎まれ口と)同じような言葉で、反抗したい気分(…)がずっと続くことが多いんですね。…つまり、子どもにも、大人にも、ガマンの限界があるっていうことです。そのガマンってものは、自分自身や、自分の身体や、自分の願いを、「ダメだ」とか「汚らしい」だとか考えなさいと言われても、ガマンの限界があるという訳です。その「ダメだ」とか「汚らしい」とか、と判断するものを「間違っていない」と信頼し続けることにも、ガマンの限界がある、ということです。そんなことを言わたら、逆効果で、そんなことを言う者がいること自体が、「悪い」と思うようになりがちです。その子にチャンスが訪れるのは、「ダメだ」とか「汚らしい」と決めつける者がいなくなった時、自分から離れた時です。」
かくして、「犯人」は、物心つく前の小さい頃から、自尊心を奪われるくらいに「正しいことを押し付けられ」て、激しい怒りを無意識にため込み、反抗したい気分が、ずっと続いていたと思われます。それは、自分と、自分の身体と、自分の願いを、頭ごなしに「ダメだ」とか「汚らしい」とかと、押し付けられて、頭と身体が分裂してしまっていたと感じますね。この「犯人」の、頭と身体を繋ぐ「首」が切られていた、と私は見ますね。
その反抗したい気分を、恥知らずに、その「首」を傷つける暴力という形で、弱い立場の人等にぶつける(投影)チャンスが訪れたのは、教員の父親らが、転居した後、のことでしたね。