エリクソンの小部屋

エリクソンの著作の私訳を載せたいと思います。また、心理学やカウンセリングをベースに、社会や世相なども話題にします。

聖書の言葉: 神様を信頼すると、なぜ、山も動くのか?

2016-11-27 04:31:03 | 間奏曲

 

 

 
大人になれない、ニッポン人
  真理はあなた方を自由にしてくれます  子どもって、不思議な存在ですね p225の第2パラグラフ。      ...>続きを読む  漸......
 

 聖書(マタイによる福音書21章21節)の中に、「ほんのコレッポッチでも、神様を信頼する信頼があれば、山も動きます」と言う言葉があります。「まさか山まで自分で歩き出すのなんて、マンガだろう」と思う向きもあるでしょう。聖書がウソを言っているのでしょうか?

 本田哲郎神父様『釜ヶ崎と福音』から。

 

 

 

 

 

 イエスにとって信仰とは「信頼してやつてみること」です。…「この山さえなければ」と思うのなら、神が力をかしてくださると信頼して、自分のできることからまずやってみる、そういうことです。小さなショベルとバケツでも何でも持ってきて、山の裾をけずってバケツに盛って、とことこと湖まで運び、ざーっとあける。その繰り返し、やってごらん。いつか、山は移っている。信仰=信頼してあゆみを起こすとは、そういうものなんだよ、とイエスはいっているのです。

 

 

 

 神様を信頼するって、教会でお祈りして、後は神様まかせ、ということが多いんじゃないですかね。でも、それは、神様を信頼していることとは、何の関係もありません

 神様を信頼するとは、信頼して、そのように生きること、生活すること、人と関わることですね。神さまを待ち望む」=ヒュポメノーも、ただ、教会やお御堂で、じっとしている、と考えたら、大間違い。信頼して、そのように、ひとりびとりの現場に踏みとどまって、逃げ出さないで、信頼の関わりを、人や物事と関わることですね。

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インターメッツォ: ナウェンさんのコンパッション  生き返る力の源

2016-11-26 08:44:40 | 聖書の言葉から

 

 

 
悪用したのも、訳アリ。
   本気と無理の間  今日のタイトル、どういう意味かって? それはね、本当の自分に対する態度であると同時に、子どもに対する態度のこと。 私は小学生の母......
 

 ヘンリー・ナウェンの『魂の向き』Spiritual Direction、p.136.

 

 

 

 

 

 イエスは、コンパッションに動かされて、息子を亡くした母親の痛みを腹に感じたんですね。イエスは魂深く感じたからこそ、その母親の死んでいた息子さんは生き返りました。同様に、苦しんでいる人の気持ちになるコンパッションに動かされる人は、神様が、助けが必要な人たちと共に今苦しみ、その仲間になっていることを、自らも体験していることになりますね。神様のお名前はインマニュエルですが、それは「神さまは私どもと共にまします」という意味でしたよね。

 

 

 

 

 

 相手の痛みを、腹から共に感じると、相手の人の気持ちが楽になります。さっき、本田哲郎神父様がおっしゃられたことです。しかし、どうやらそれだけではないようですね。

 相手の痛みを腹から感じると、相手の人は、自分の足で再び立ち上がることもできるらしい。それは、「死んでいたのに、生き返った」ということの意味するところではないですか?

 人のことを悪く言う人とは、正反対の生き方ですね。

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インターメッツォ: エリクソンの叡智 : 人のことを悪く言うのは、自分の魂に傷があるから

2016-11-26 07:59:42 | 間奏曲

 

 
真理に対する畏敬
   本気と無理の間  今日のタイトル、どういう意味かって? それはね、本当の自分に対する態度であると同時に、子どもに対する態度のこと。 私は小学生の母......
 

 またまた、またまた、Chilhood and Society p.249から。

 

 

 

 

 

 人のことを悪く言うのは、私どもが自分の中にある痛みを、外にあるように経験する時です。

 

 

 

 

 

 エリクソンって、実に深いでしょ!

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聖書の言葉 : 「笑う門には福来る」は聖句? 奇跡は起こすもの?  改訂版

2016-11-26 07:34:09 | 間奏曲

 

 

 
利根川の冷たい水に入る老夫婦・娘と「女性が輝く社会」
   本気と無理の間  今日のタイトル、どういう意味かって? それはね、本当の自分に対する態度であると同時に、子どもに対する態度のこと。 私は小学生の母......
 

 リチャード・コート、木鎌安雄神父様・訳の『笑いの神学』から。p111~。今宵も、筆者が改訳しています。

 

 

 

 

 

 「神様を信頼することは、望んでいることを実現する生き方のことですし、見えないものを、すでに見えるものにする生き方のことです」と聖書(ヘブライ人への手紙)にあります。…クリスチャンって、気違いじみた想像力がありますし、信じられない程の可能性に賭けています。…笑いは、(途方もない)可能性を見つけ出すものですから、笑いの先に、“奇跡“がまさに生まれます

 

 

 

 

 

 奇跡は起こるものであると同時に、奇跡は笑いが起こすものなのかもわかりませんね。

 

 

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聖書の言葉 : マーゴイ : カウンセラーやサイコセラピストは「罪びと」?

2016-11-26 06:52:38 | 聖書の言葉から

 

 

 
与える悦びと貧しさ
    子どもに必要なのは、大人の「真実な態度」 「真実な」=信頼豊か  早熟の道徳性、早熟の良心は、禁物です。「正しい」ことよりも、「ホッとできる......
 

 

 カウンセラー、サイコセラピストは、日本では後発の、新しい仕事。タコツボ社会、井の中の蛙社会、ムラ社会ですから、ニッポン人は「新しいモノ」にはすぐに飛びつくのに、「新しい存在」には否定的、懐疑的。カウンセラー、サイコセラピストは、学校でも、病院でも、福祉施設でも、矯正施設でも、会社でも、「外様」扱い、傍流です

 それはなぜなのか? が、解ってくるような気になる所です。本田哲郎神父様「釜ヶ崎と福音」から。

 

 

 

 

 

 村人からうとまれたイエス誕生の折に、お祝いにかけつけた二組の人たちがいました。…東からやって来た三人の博士。マタイ福音書2章に報告されているエピソードです。原文は「マーゴイ」となっています。これはギリシア語ではなく、ぺリシア語を音写したものです。マーゴイ」とは博士でも王様でもなく、占い師です占い師医者とカウンセラーの役割もする、原始的な形で人の悩みを受けとめる人たちです。…病人の痛みをわが身に共有するというようなことです。すると、病人は「あ、自分だけではなくて、目の前の相手もいっしょに、この痛みをわかってくれている」と気持ちが楽になる。コンパッション、つまり共に苦しむことでいやしが行なわれる。これが占い師=「マーゴイ」でした。ユダヤ社会では異端視され、「罪人」とみなされる人たちでした。

 

 

 

 

 

 ですから、ニッポンでも、カウンセラー、サイコセラピストは、「外様」扱い、よそ者、傍流なのかもしれません。しかし、コンパッションには、その相手を癒すばかりではなく、その「外様」扱い、よそ者視する、傍流となっている集団・組織も癒す役割があります

 


 

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