ふたつ前の記事、
"ひきこもり"の定義の記事でも書いたけど、
この間、NHKの朝の番組で説明してたひきこもりの定義は、
自室からほとんど出ない。
自室からは出るが家からは出ない。
近所のコンビニなどには出かける。
趣味の用事のときだけ外出する。
という事が6か月続くという事でしたが、
この4つを脳脊髄液減少症患者目線で考えてみたいと思う。
① 自室からほとんどでない。→ 家にいるのは、言葉で説明してもわかってもらえない理由があるのに、
自分に優しくない家族がいて、家にいる事を責められ続ければ、
自分を家族の非難から守るために
そりゃあ、部屋から出たくなくなるわね。
② 自室から出るが、家からは出ない。→ 生きるために、食べたり飲んだりトイレに行ったり、入浴したりするために、必要最低限は部屋から出るけれど、
外に出なくても、衣、食、住、なんとか支えてくれる家族がいるなら、
家から出る必要はないから、外にでるのがしんどい人は、
家から出ないのはなんの不思議はないわね。
③ 近所のコンビニなどには出かける。→ 食べたいもの、買いたいもの、読みたいものなど、少しでも意欲がわいている時、
かつ体調も気分もいい時は、そりゃたまには外に出かけたくなるわね。
でも、それを家族や周囲が喜んでくれるどころか、
そんな時だけ出かける=都合のいい甘えたヤツ
と思われるから、内心ビクビクだから、
肩身は狭いし、後ろめたい。
外で知ってる人に会って声かけられるのが嫌なはず。だから夜とか、めだたない時間に出かけるのかも。
④ 趣味の用事の時だけ外出する。→
趣味の時だけでも外に出られるならそれだけでも良かったね、と私なら思うけどね。
でも、一般的には、そうは思われない。
これが「主婦」という役割が与えられている人なら、
趣味の時だけ外に出ても「ひきこもり」とは思われないのかもしれないけど、
仕事をしていない成人が、普段は家の中にいて、趣味の時だけ外に出ると、「ひきこもり」とされ、
冷たい目でみられ、問題だとされちゃう。
もし、もし、だよ。
外見の様子だけで、「ひきこもり」とされている人が、
実はなんらかの病気でそういう状態になっているのを見逃されているとしたら?
あまりに理不尽な仕打ちだと思わない?
だって、たとえば、「がん」で入院中の人が、
いつもは個室でぐったり寝てばかりいるのを見ても、
誰にも
「なまけている。甘えている。自立しろ!」とは言われないでしょ?
入院して寝ているだけで、それだけで病気と闘っているえらい人なのよ。
患者が、たまに気分が良くて、体調も良くて、
個室から出て、病院の売店に、買い物に行っても、
「なんだ?欲しいものがある時だけ外に買いに部屋から出て行くのか?
ふだんの、ぐったりは演技かい?
なんだ、やろうと思えば起きて動けるじゃない。
という事は、いつも横になって部屋にこもっているのは、甘えているのか?」なんて、
看護師さんや医師や家族に言われないし、思われないでしょう?
患者がやりたい事があって、
たまに、一人で外に出かけられて、買い物できるって事は、
「いつもより気分も体調もいいんだね?よかったね!」って、喜んで暖かく見守ってもらえるでしょう?
患者は患者で、気まぐれに起き上がって売店行っても、
変な目で見られないから、
部屋から外に出ても、うしろめたさも、ビクビク感もなく、
自分が動ける時に自由に外に出るでしょ?
なのになぜ、「ひきこもり」の人はただでさえ何かのつらい状態にあるのに、
ひきこもる事で、必死に自分の命を守っているかもしれないのに、
「えらいね!」と言われないの?
怠けている、甘えていると非難されちゃうの?
さらに周囲から冷たい視線や軽蔑の目を向けられたり、
叱咤激励だけされて、
適切な支援が、患者みたいに受けられないの?
なんでもそう、医療と福祉の頂点に医師がいて、
医師が病名つけないと多くの公的支援が受けられない。
脳脊髄液減少症も、今もまだ、医師に十分に理解されてはいないけど、
2016年に、脳脊髄液漏出症のブラッドパッチ治療が健康保険適用になってから、存在を否定する医師は減った感じはする。
だけど、厳しい診断基準のせいと、画像診断の限界で、漏れが写らず、ブラッドパッチ治療を保険適用で受けられない人もいる。
その上、脳脊髄液減少症をいまだに知らない現役医師が多く、
「患者の性格のせい」や「こころの病」扱いする医師たちが私の周りにもわんさかいる。
そういう、医師からのさげすみを感じるたび、
医師って、なに様?ってうんざりする。
人を治す人なんだか、
人を繰り返し傷つけて、ズタズタにする悪魔なんだかわからなくなる。
だからね、
見た目は、病人にも怪我人にも見えず、
ただの甘えてる人に見られているような人の中に、
かつての私みたいな人がいる気がしてならないの。
"ひきこもりの人".の苦しみや立場のつらさ、居場所のなさ、身の置き所のなさ、想像してしまうの。
私だって働けていないから家族と食事をする時
「働かざるもの食うべからず」という言葉が頭に浮かんできたりして、
私みたいなの食べていいのかな?と思ったりした。
だからね、
私は、なんとなく、ひきこもりの人たちの気持ちもいろいろ想像してしまうのです。
だけど、どんな当事者も、当事者の世界は、当事者しかわからないから、
どうか、どんな当事者も、そうでない人たちに、伝え続けてほしい。
そうする事で、当事者自身も他の視点に気づく可能性もあるから。