最近の母
1か月半ほど前、8度7分の高熱を出した。
皆が心配したが、なんと2日後には平熱に戻り、看護婦さんが驚異的な体力とビックリ
内臓が丈夫なのだそうだ。
その後しばらくはは目の焦点もはっきりせず、声を出すこともせず、ボーッとしていた。
私が行くとベッドで眠っていることが多かった。なかなか目を覚まさない。
寂しいけれど母の年齢(92歳)を考えると、そんなものなのかしらと思っていたが、
このところ復活!!!!
私の名前はなかなか出てこないけれど、おしゃべりするようになり、表情もはっきりしてきた
「よくここがいるのがわかったわね。」 「遠いの?(遠くから来るの?)」
「なんでここにいるの?」 「(外が暗くなったのを見て・・・・)遅いから帰りなさい」
いつも話す内容は同じだけれど、熱を出す前の母に戻り、安心した
写真は塗り絵をする母。
赤、赤、と言いながら力の入らない右手で、少し色を塗った。はみ出さないように丁寧に・・・・
きちんとした性格は、この年になっても変わらないようだ。
定期健診
ここは? 気持ちよさそうな所でしょ?
病院の外来患者用のテラスです。
とても気持ちいいので、ここでランチしたりコーヒーを飲んだり、暫し休憩する。
最近、検診は半年に一回となった。
手術から、4年と8か月経過。 経過は順調。
もうすぐ、術後5年となるので、健康を感謝し、夫と相談して病院に寄付をした。
家に帰ってからだと決心が鈍るので、事務室脇の募金センター?に行き、
ATMでおろしたお金を穏やかで丁寧な担当者に渡した。
この病院は私立なので、いつも資金不足。
数年前、この病院が収入を過大申告していたと、新聞ネタになったことがある。
収入の過少申告なら税金逃れだが、なぜメリットのない過大申告をしたのだろうか?
これは収入が少ないと公的援助?が受けられないため、
経理担当者が苦肉の策で過大申告していたという、悲壮で哀れな話だった。
何ともお気の毒!
経営難で、病院がつぶれたらとても困るわ 少しでもお役に立てればと寄付を決めた
私達の寄付は高度先進医療の機材購入の役に立てるそうだ。
使い道がはっきりしていて気持ちがいい。
それと少し嬉しいのは、金属の銘板に、名前が刻まれるそうだ。
夫婦連名でお願いした。
こんな額で名前が残るのは気恥ずかしいけれど、
私達がこの世からいなくなった後も、ここに名前が残っていると思うと、不思議な気分になった。
生きた痕跡がここに残るということかしら。
話は飛ぶけれど・・・・・・名前がどこかに残る事で、気持が少しでも和らぐなら、
今年亡くなった大勢の方たちの銘板も作ってあげたくなった
余談ですが・・・・・
久しぶりに病院に行き、この病院の過酷な人間再生?プログラムを思い出した。
先生も看護婦さんもやさしいが、時に 過激な方法を取る。
1 最初の手術から一週間集中治療室にいたが、口もきけず、目も開かず、動けず、
首も座らない状態の手術次の日に、30分間車椅子に乗せられた。
寝たままだと、肺機能が低下するらしい。
車椅子の上でがっくり首を落とし、うす目を開けた先に、夫の心配そうな顔がぼんやり見えた。
2 集中治療室を出て2週間で、退院を宣告された。
まだおなかの傷もふさがらず、痛みがあり、顔も首の所の縫い目が抜糸できず、
いつも枕に血が付く状態だった。
でも、時間がかかるが必ず直るので、病院での治療はもうないと言われてしまった。
担当の先生は機能回復という点で、病院にいるより、自宅の方が良いという信念を持つ方。
病院にいると筋力が落ち、社会生活復帰が遅くなるといつも言ってらした。
結果的には家で一生懸命動く練習をしたので機能回復も早かったが、
退院を宣告された時は先生の顔が鬼に見えた。
3 3回目の手術は、顔と、わき腹からおへそ、そこから足の付け根と大きくL字型に切る手術だった。
手術の次の日、さすがに傷が大きくて身動きできない。
でも、看護婦さんに画像診断の部屋まで歩いて一人で行くように言われた。
え~!!無理~~!! と思いながらも手すりを伝って頑張って行きついたが、
帰りは力が出ず、椅子に倒れ込んでしまった
こう書くとひどい病院のようだが、患者を甘やかさないというのが病院の信念だった。
普段は看護婦さんも先生も実に優しかった。
あの過酷な日々があるので、身も心も強くなり、生き延びる力を得ることができた。
久しぶりに 闘病時代を思い出した一日だった。
ずいぶんと過去の事のように思えるわ