久米村を「くんだ」久米村人「くんだんちゅ」と呼び
流球は「くんだんちゅ」によって
朝鮮、東アジア、東南アジアとの中継貿易よって
一時代を築き繁栄を極めた
それには中国明朝の朝貢冊封体制よる
海禁政策によって民間人の海上貿易を禁止し
正式な朝貢使節とのみ交易を行う
政策によって琉球は中継貿易として存在し、存在を増していく
中国明朝は、琉球を通して必要としていた
東南アジア、日本産品を入手していた
そのため琉球を重要視し海船も下賜し(30隻以上)
修理もしたと「歴代法案」に記述されている
流球は、1550年代には最盛期を迎える
1567年に中国の海禁政策が廃止され
中国の海商人が続々と、東南アジアへ進出し
西洋諸国もポルトガル、スペイン、オランダ
などもアジアへ貿易のため進出してきた
流球の中継貿易として失われ流球国は衰退していく
それに合わせて久米村も衰退し荒廃していき人口は激減した
1606年尚寧王の冊封のため来流していた
夏子陽は六家のみと記録している