中国明王朝の海禁政策の廃止
西洋諸国のアジア進出などで
衰退した琉球久米村は
1609年に薩摩軍が侵攻して
流球国は政治的独立失うが
薩摩の支配の中で琉球は
中国明朝との君臣関係を保ったまま
薩摩の政策監督によって
冊封朝貢交易を維持し推進して行く
王府は荒廃した久米村を
朝貢関係を維持する復興強化を図る
身分の保証、中国への官費留学
経済的優遇策などの特権も与えられた
荒廃していた久米村は往時の繁栄を取り戻した
諸外国との貿易を背景とした
久米三十六姓は政治的、経済的に
その地位は極めて高く大きな影響を与えていく
流球国の正史である、中山世監(1701年)を
編纂した蔡鐸や多くの政治家、三司官の鄭迵、祭温
王府の要職、学者、教育家など久米村から排出して
流球の発展に寄与していった
そうして久米村を朱明府と呼ばれるようになる
朱明府と呼ばれた、三十六姓によって
流球が廃藩置県になるまで
約500年の間、外交、貿易に従事した