久米三十六姓とは
今から約620年前察度王(1350~1396)の時代
中国の明朝洪武帝の時代に、閩から渡来し
浮島と言われる一角に居住し久米村を作った
浮島は、国場川、久茂川、安里川と海に面した島である
閩とは現在の福建省の古名で
三十六姓とは漠然とした数字で
大勢の人が閩から渡って来たため
久米三十六姓と呼ばれた
流球の正史と言われる、中山世譜(1701)に
1392年中国明朝洪武帝より他の下賜品に加えて
閩人三十六姓を賜ったとの記述があるが
しかし、中国明側の同時代の史料である「明実録」
等にはこうした記録が無いと言う
近年では研究者の間では、三十六姓の
下賜説については疑問視している
一般的には察度王の時代に中国明朝との
冊封体制関係に入り交易、商売目的に
中国、琉球間を往復しているうちに
居住し定住したとされている
その後も随時琉球に渡来してきている、と
流球は交易立国として
対外貿易、外交文書の作成
通訳、造船、航海術などを担う専門職能集団として
中国、東南アジアとの外交貿易などの交渉を遂行し従事した
流球は中継貿易によって大いに繁栄する
この繁栄は、久米三十六姓によって成し得た物である