オヤケ アカチの乱 <1>
先島諸島の八重山と宮古は
1390年に琉球国に初めて朝貢したと
史書球陽に記されている
14世紀末までは琉球国とは緩やかな従属関係にあった
歴史書中山世譜(1701年)に琉球国が管理する
宮古と八重山は毎年納貢していたと記述がある
1500年尚真王(1477~1526年)のとき
3,000人の兵を派遣し八重山に侵攻した
その理由として、中山世譜・球陽には
イキリヤアモリと言う祭祀は淫祠邪教であると
厳禁したが従わなかったこと
毎年納貢していたが、ここ2,3年間納めなかった
その上謀叛の疑いがあると
宮古の仲宗根豊見親(空広-そらびー)からの報告を受けたこと
八重山石垣大浜村を統治していた
オヤケ アカハチが謀叛したのだという記述がある
(歴史書は琉球王府を中心に書かれたもので必ずしも史実とは言えない)
この三点を挙げて
大里王子を大将に、軍艦48隻と兵3千人と
久米島ノロ(神女)君南風(チンペー)と
那覇港を、1500年3月1日出発し
宮古の仲宗根豊見親が率いる兵と合流し
船団を先導したのは空広である
3月12日に八重山に至り
アカハチと敵対していた石垣村の長田大主が王府軍を道案内した
3月19日攻撃が始まり、攻防を繰り返した末に王府軍の勝利となり
アカハチとその妻古乙姥(くいつば)と、一族はすべて打ち殺された
アカハチの妻は長田大主の妹であった