八重山諸島は、14世紀頃まで記録された歴史書はほとんどない
八重山諸島の古代史は発掘された遺跡などから
有土器時代と、無土器時代に分けることが出来る
八重山では何故か土器を持った人が初めに渡来(紀元前2000年頃)し
その子孫絶滅したのか、移動したのか
その後空白(約800年)の時代があって
無土器時代が始まり、12世紀頃まで続いたとされている
通常では無土器文化があって、有土器文化となるのが当たり前と思うが
何故か八重山では逆になっている
日本・沖縄本島では縄文時代・弥生時代の
痕跡があるのに対して八重山諸島は異なって
沖縄本島との歴史とは無関係となっている
有土器時代は遺跡より土器が多く出土している
赤褐色して赤色土器時代ともいわれる
東南アジア・中国南部あたりから人々が、来島したと考えられている
無土器時代貝塚から、焼石蒸焼き料理に用いられたと考えられる
多数の焼き石、貝製貝斧が出土している
土器を持たない人々が東南アジア方面から
黒潮ルートに乗って八重山諸島に渡って来たと考えられている
また、無土器時代の遺跡から
「開元通寶」の貨幣や鉄器(船釘や鉄さく)など出土している
開元通寶は、大和朝廷が六二一年製造した貨幣である
沖縄史書には記録はないが、714年続日本書記に「信覚(しがき=いしがき)」
奄美・球美(くみ)などの人々52名が太宰府に来朝したと記されている
信覚(しがき=いしがき)は石垣島を指すといわれ
球美(くみ)は久米島ではないかといわれている
八重山は古い時代から日本との交流があったと考えられる
また、1185年に平家の落武者が八重山に来島したと伝えられ西表島の
慶来慶田用諸按司(1500年頃)は平家の落武者の子孫と伝えられている、、?