オヤケ アカハチの乱 <3>
オヤケ アカハチ(遠弥計赤蜂)は波照間島の生まれで
石垣島大浜村に居し最大の勢力を誇っていた
八重山諸島では石垣地域は長田大主
川平地域では仲間満慶山
平久保地域は平久保加那
西表島では平家落武者の子孫と伝えられている慶来慶田城用緒
(平家の落武者来島は1185年頃と言われている)
波照間島は明宇底獅子嘉殿が
そうして与那国島では女首長サンアイ・イソバが
それぞれの地域で割拠していた
その中でアカハチが最大の勢力を誇り、それらの勢力はアカハチに従った
石垣島周辺を手中にし、竹富島・波照間島・小浜島なども勢力下においた
しかし1500年琉球王府軍が石垣島を侵攻したとき
アカハチを支持した首長は一人もいなかった
アカハチに従ったのは、島民だけであった
アカハチ軍は奮闘虚しく王府軍に敗れ
アカハチとその妻と一族すべて処刑された
琉球の史書には逆賊とされているが
八重山においては、島民の先頭に立って権力に立ち向った英雄として
現在も語り継がれている
石垣市内大浜の崎山公園にアカハチの碑が1952年に建立され
2000年オヤケ アカハチの500年祭で像と妻クイツバの碑が建てられて
500年の時を経て夫婦の碑が並び建てられた