備瀬知恒とは
1854年禁制の浄土真宗を信仰し布教した事で
検挙され石垣島へ終身流刑となった仲尾次政隆の後を継いで
浄土真宗を信仰・布教し王府に発覚し検挙され
備瀬知恒も、石垣島へ10年の流刑となった
仲尾次事件から、22年後、1876年10月の事である
備瀬知恒は那覇東村の出身」で浄土宗の熱心な信者で
仲尾次の布教によって帰依したと云われている
仲尾次事件の時は奄美大島に滞在していたと言う
1861年頃帰郷し布教を再開した
中山国尼講と称する信徒達の(主に遊女)を中心に組織されていた
しかし急激に信徒が増えたことが災いし布教が発覚した
1877年10月に、備瀬以下300人以上が検挙され処罰された
備瀬は中心人物として、石垣島へ、10年の流刑となった
1877年石垣島へ送られる途中、難船し殉教した
備瀬知恒、亭年59歳であった
沖縄の浄土真宗は、1597年に薩摩藩によって禁制となり
激しい弾圧を受けた
1876年(明治9年)に禁制が廃止され、実に300年に渡り続いた