尚徳(1441~1469年)は1461年
琉球国中山王七代目に即位する
尚徳は泰久王の三男として生まれ
母親は側室でありながら
王妃の子長男富金橋や次男を退き
泰久王の後を、七代目王を継いでいる
それは母王妃の父親護佐丸が謀反の嫌疑を
掛けられたから即位出来なかったと言われている
尚徳は在位中多くの事績を残している
1466年に尚徳は、喜界島を征討するため
自ら二千余の兵を率いて出陣している
遠征前にこの戦いに成否を神にお伺いを立て
この戦いは義ありとしている
史書球陽によると
かなり前から喜界島に朝貢を促していたが
従わなかったので攻め落としたとある
奄美群島全域を配下に置いた
尚徳は仏教に帰依し信仰に厚く
天界寺や大宝殿、八幡宮などの寺院を建立している
また父王の代から仕えていた
臨済宗僧侶介隱承琥を使者として
室町幕府に派遣、将軍足利義正と謁見し
日本との関係を深めた
明国から暦学の導入
永楽通宝を変造し世高通宝を発行する
朝鮮王にオームや孔雀など寄贈し
返礼に方冊蔵経など送られている
尚徳は若くして王となったが強い指導力を発揮し
特に海外との交流事業を積極的に行った