尚徳は二十一歳のとき尚氏王統七代目に即位
尚徳は強い行動力を発揮し国政を行ったと言われている
琉球の正史によると尚徳王は重臣の諫言も聞かず
臣下の粛清、女に現をぬかし行政を疎かにし
むやみに出兵し財を浪費し
酒色好みなどと暴君として記されている
しかし当時交易を行っていた、明国や
高麗東南アジアなどの、史書よると
琉球国尚徳王は有能盛んな王として見える
重臣のトップである金丸とは
度々政策が合わず確執が生じた、そのため金丸は
西原間切り内間に隠居している、1468年の頃
1469年4月22日尚徳王二十九歳の時急死する
病気か事故か暗殺か死因は不明である
そのため多くの憶測を呼んでいる
金丸を支持する家臣たちによるクーデタが起こり
尚徳の世子、次男、四男は殺害され一族の多くは追放
三男は乳母によって佐敷に落ち延びた
尚徳に関する多くの伝承伝説が語られ
墓や石碑が北は喜界島から本島
宮古諸島まで存在し語られている
金丸は重臣の推挙により中山王に即位する
金丸は尚を名乗り尚家を継承した
尚氏王統は七代続き64年で滅びた
尚氏王統とは、全く血の繋がりの無い
金丸が尚氏を名乗り尚円と名乗った
新しい王統の始まりである