金丸が重臣として使え、寵愛を受けていた
尚泰久王が1460年薨去
世子である尚徳王が二十一歳の時
尚氏王統七代目に1460年に即位した
若い尚徳王とは事ある事に意見が合わず
諫めても聞かず遂に確執が生じ
金丸は西原間切内間に隠居する事になった
1468年五十四歳の時である
その尚徳王が1469年4月22に、二十九歳の時急死する
病気か事故か暗殺か場所、死因も不明である
そのため現在までも憶測で語られている
琉球の歴史書によると
法司(三司官)たちは尚徳王の世子を王位に継承させ
即位させようと重臣たちを招集し会議を開いた
だが世子は国王として幼いと、問われ
その場で金丸を次期国王に推挙し全員一致で決定された
金丸は隠居先から首里城に迎えられ国王に即位した1470年
金丸は尚徳王の世子として、朝貢関係にある
明王朝に尚徳王の薨去を報告、請封し冊封を受け
金丸は名実ともに琉球国中山王に成り
尚氏を継承し、尚氏と名乗った
前尚氏と区別するために第二尚氏と呼ばれている
そうして金丸は、尚円と名乗った