琉球は東シナ海の中心にあって、地の利を生かし
中継交易によって、1550年ごろ最盛期を迎えていた
それは明国が解禁政策を行っていたからである
ところが清王朝(明王朝1644年倒れる)は
解禁政策を緩和した、中国の海商人は続々と
東南アジアへ進出していった
また西洋諸国も世界、アジアへ進出し交易の拠点を構えた
日本の鎖国政策、清国の解禁政策の上に成り立っていた
琉球の中継交易は失われ、琉球国経済は衰退していった
1589年尚寧が琉球国中山王七代目に即位した
その二十年後琉球国に薩摩藩が八十余りの軍船と
約三千の兵を持って侵攻して来た
琉球は戦う術もなく尚寧王は降伏した
わずか十一日の攻防戦で終結した
琉球は薩摩藩の付属国となり貢納を負い
奄美群島は琉球から分離され薩摩藩の直轄地となった
また琉球の貿易権、管轄など書いた
「掟十五か条」を認めさせられた
そのよう中でも琉球は明王朝にも朝貢を行い
冊封を受け続け明国と薩摩藩との両属という体制をとり
琉球は独立国家として体制を維持した
だが朝貢交易と外交の実権は薩摩藩が握り間接支配をした
また江戸幕府に使節を派遣する義務を負うことに成り
江戸幕府末期の1850年まで十八回行われた
琉球国は幕藩体制に組み込まれ
1879年(明治12年)廃藩置県まで続く