尚寧王の治世に薩摩藩の侵攻により奄美群島は
琉球から分離され薩摩藩の直轄領となり
琉球は薩摩藩の付属国になる
明国とは朝貢関係で冊封を受け続け両属体制と成り
琉球は独立国家として、なんとか体制を維持する事が出来た
尚寧王は苦難に満ちた琉球を三十二年治め
1620年五十六歳の時薨去
琉球は激変する国際情勢に翻弄される
西洋諸国のアジアへ進出、日本の開国、清国の解禁政策の緩和
琉球の中継交易は失われ国の経済は衰退
その上追い打ちをかけたのが、1644年明王朝が倒れ
内乱状態と成りわずかながら行われていた
交易も一時期出来なくなった
激変する国際情勢、グローバルかする世界
旧体制下の琉球は国として機能を果たすことが出来なかった
琉球の政治は混迷し、誰もが危機感を抱いていた
第二王統十代尚質王は、疲弊している国を立て直すため
羽地朝秀を1666年に行政最高高位摂政に任じた
羽地は国の構造改革に着手し財政再建
政教分離、祭祀の合理化
身分制度の系図を作らせ整備した
身分は系図によって守られ
身分は系図によって継承され
身分を制度化した
羽地は特に農業改革に力を注ぎ貿易の経済から
農業を国の経営に転換して疲弊していた琉球を蘇らせた
羽地の改革は蔡温へと受け継がれる
十三代目尚敬王(1713~1751年在位)の時
蔡温が三司官に任命され1728年に就任する
蔡温は強力なリーダーシップで農業、農地の地検
林業、土木、治水などの制度の整備
そして国政全般、新体制を完成させた
蔡温と羽地朝秀は琉球国の偉人として
現在でも国の恩人として尊敬されている