蔡温は、久米村の実力者で琉球の正史中山世譜(蔡鐸本)や
歴代法案の編集、漢詩集などを著した
父親蔡鐸の下で勉学に励み論語を始め
語学(日本語)など学びまた多くの書物を論破し
二十代前半で、トゥージ(通訳)に任命され
漢文の教師や講解師となる
1708年27歳の時に進貢存留役となり清国へ
トゥージとして赴任する
この2年間に儒学や書物の知識だけでは
何の役にも立たないとする「実学」の教えを学び
多くを学び、多くの知識を習得し、1710年に帰国する
1711年尚益王の世子尚敬の教師兼務役に任命される
1712年12代尚益王が死去する
1713年尚敬13歳の時、13代目王に即位する
祭温33歳の時に国師に就任し
国を指導する役割を担うことに成る
正義太夫となり首里赤平に土地を賜り転居する
1715年34歳で勝連間切神谷地頭職に任じられ
神谷親雲上となった
35歳の時申口座となり末吉地頭職となる
38歳で紫金太夫末吉親方となり
三司官となる資格を得る
祭温47歳の時王族、上級土族ら200余名の選挙によって
世あすたべ(三司官)に任命される
久米村から2人目の三司官である
祭温は名実ともに琉球国の実力者に成った