雨宮家の歴史 7 父の著『落葉松』 第1部の4 陸軍被服廠
Ⅰ 4 陸軍被服廠
卓二は名古屋鎮台の歩兵六連隊付となったが、すぐ福井大隊区司令部付となって、福井に赴任した。父福男の誕生は前章で書いたが、「明治二十三年九月四日 第三師団附差免 被服廠附申付 陸軍省」なる辞令を受けて、三年余りの福井勤務を終えて、古巣の東京に帰ることになった。福男も二歳になり、既に東海道線も全線開通していた。
陸軍被服廠は、卓二が会計卒になった時、配属された服庫課が明治十九年三月に被服廠条例が施行されて昇格したものである。庁舎は麹町区有楽町にあり、倉庫が築地明石町と深川大工町にあった。この二っの倉庫を赤羽に一本化する事になり、明治二十四年二月一日完了した。卓二はこの仕事に関わったのである。
赤羽倉庫は北豊島郡岩渕村赤羽(今の赤羽台一、二丁目)に設けられ、卓二はこの赤羽倉庫勤務となった。なお、階級が上って二等書記(経理軍曹)となった。
(三) わが育ちし 家あとも無く 枯桑畑の しらじらとして 亡き父思う ( 昭和三十六年 )
卓二は住まいを赤羽倉庫に近い岩渕村袋に持った。現在、地下鉄南北線の始発駅である、赤羽岩渕駅と荒川の間に位置する赤羽二丁目であるが、当時は農家の点在する田畑であった。
明治初年、新政府は東京を朱引内(旧市内)と朱引外(新市外)とに分け、朱引外では空き地を開墾して、桑や茶の植え付けを奨励した。このため岩渕辺りでも桑畑が多かった。陸軍官舎といっても、農家を借り上げたものであり、藁屋根の家で、縁側に糸車が見え、子供たちは着物姿であった。
後年、明治三十六年のこと、東北線を走っていた機関車の煙突よりの火の粉が、岩渕村の農家の藁屋根に飛び火して火事となり、近隣にも燃え移って、赤羽駅・岩渕小学校・陸軍官舎など二百余戸を焼失した。
この陸軍官舎は、卓二たちの住居だったと思われるが、その時は本所の本廠勤務で、向島小梅町に移っていたので、災害は免かれた。
この岩淵で福男の弟・次男孝男(芝区白金三光町)、妹・次女花(本郷区菊坂町の安藤家に嫁す)が生まれた。この間に日清戦争が起こり、卓二も出征することになった。