雨宮家の歴史 10 父の『落葉松』第1部の7 谷島屋書店
福男が開成に入学した明治三十三年、祖父卓二は陸軍軍属になっていた。明治三十三年三月三日付で、経理局長の野田男爵(野田中将は日清戦争従軍の功により男爵を授けられていた)から授与された技倆証明書に「現役中行状端正勤務ノ結果優秀ニシテ其技倆文官ノ任務ニ適スル者ト認定ス」とあるように、現役から文官に移った者を属というのであろう。
それにしても長い現役であった。明治十七年に会計卒に任ぜられているから、十四年間の現役であった。被服廠の創設に関わった者として、致し方なかったであろう。四十三歳になっていた。明治三十六年に退官するから、現役・属の期間併せて二十年間の陸軍生活であった。
明治二十三年の陸軍被服廠定員表では、(主管)一等軍吏一、(被服官)二・三等軍吏二、一・二・三等書記五、属四等以下三、計十一名となっていた。
判任官俸給令(属は判任官であった)によると、属の四等から六等までは三十五円より十二円と幅があった。しかし卓二の俸給辞令は、八級俸より六級俸となっており、調べたが金額は分からなかった。
文官になると年末に賞与が出た。即ち(三十二年)三十七円、(三十三年)四十円、(三十四年)不明、(三十五年)三十七円。賞与が一ヶ月分とすれば、約四十円が月額となる。
明治三十三年の個人消費支出は一人当たり年百二十三円五十六銭となっている(『明治・大正家庭史年表』河出書房新社)。月にすると約十円である。卓二は五人家族であるから、五十円必要となる。平均であるから一概には言えないが、四、五十円の収入はあったのであろう。日清戦争従軍で勲八等五十円、朝鮮に於ける再軍務により四十円など臨時収入もあった。
私が今でも疑念を持っているのは、父福男がなぜ開成に入ったかということである。開成と言えば、昔も今も名門校である。誰でも入れる所ではない。福男に学力があり、親の期待があったのであろう。福男の成績表、学籍簿が学校に残っているが、非公開で別の機会にと、見ることが出来なかった
開成に入ることは、高校・大学(旧制)へと進学することが常識である。遊び友達だった末広巌太郎氏は、一高・東大へと進み、東大法学部長になっている。無論福男も開成だけで終わるつもりはなかった。
開成の授業料は明治三十四年九月の時点(福男一年生の時)で、月額二円七十五銭であった。樋口一葉一家の毎月の米代が二円五十銭(渡辺澄子ー『中日新聞』平成十四年八月十三日夕刊)だったというから、三人分を一介の書生が消費した。その他を含めて教育費として、月五円を必要とすれば、五十円の収入に対して十%の支出となる。卓二一家の生活費が、余裕あったかどうか甚だ心許ない。
明治三十八年四月に開成を卒業した福男は、一高受験の準備をしていた。卓二は既に三十六年に二十年間の陸軍生活を退官して、浜松に移っていた。福男はまだ四年生であり、内山太郎なる人の家に書生として住み込み、通学していた。
戦後のある春の日、私は父と一緒にその人の疎開していた、茨城県の筑波山麓の柿岡町の家に一晩厄介になったことがある。内山氏は父のパトロン的存在だったようである。
(六) 東京の吾を呼びよせし父の電報
危篤の父が駅に待ちおり ( 昭和四十六年 )
ところが、ある日浜松から「 チチキトク スグカエレ 」という電報が届いた。これには福男も驚いた。更に驚いたことは、その危篤の父が浜松駅に、出迎えに出ていたことである。まだ弟妹は小さくて生活が苦しかったのである。福男は進学をあきらめるしかなかった。
「私が東都で学を卒えて、両親のもとに帰ったのが、明治三十八年、縁あって谷島屋へ入店した 」(「福男文集」)
後年、業者の集いで父が歌うのは、きまって一高の寮歌「ああ玉杯に花うけて 」であった。いつまでも、あの時の無念さをあきらめることが出来なかったようである。
谷島屋は明治五年創業の書店で、新刊書・教科書を扱う、浜松は無論のこと、静岡県下でも最大の本屋であった。文学少年だった福男にとっては最適の職場であった。しかし、幼少年期を過ごした東京への望郷の念が強かったか、四、五年して又東京へ戻ることになってしまった。このことは、祖父卓二が養家先の中谷家を飛び出して上京し、陸軍へ入った事とよく似通っているのを感じる。
店主夫妻の見送りを受けて上京し、落ち着いた先は湯島天神町で、店主の知人の洗濯屋の権利を譲り受けたのであった。資金は全部店主が負担した。私が考えても、父に洗濯屋の商売が出来るとも思えず、加えて、洗濯物に赤いシミの付いているのが分からず、色盲とわかり、洗濯屋をやめてしまった。
「実を申しますと、谷島屋へ入店前、東京で古本屋の露天営業をやり、神田の市会へも出入りしましたが、何しろ失意当時の私、資本も無くシッポを巻いて、田舎へ帰った次第です。」 (福男文集)
ちょっと話が矛盾しているが、失意当時というのは、洗濯屋をやめた時のことであり、この後古本の露天営業をやったのである。
湯島天神町は一丁目八十八番地で、湯島天神の前である。ここに大正七年まで、二男二女を育てながら約九年間住んだ。
古本の露天営業は、東京大学赤門前でのことである。神田の市会へ出入りしたというから、古物の鑑札を取ったのであろう。母は幼い娘を背負って夜店の番に立った。その本郷通りに棚沢書店という古書店がある。
浜松で昭和五十年十月七日から八日朝にかけて、最多雨量三百三十二ミリメートルという大雨が降った。私の家は高台だったので被害は無かったが、下町は出水した。この時、棚沢書店から見舞いの葉書が寄せられた。
「拝啓 中秋の候ですがお変りありませんか。新聞で浜松地方の大雨を知りましたが、お店はいかがですか。浜松も暫くご無沙汰致し申し訳ありません。一日も早く回復なさるようお願い申しあげます。私どもも昨年、父が亡くなりましたが、他は変わりありません。右お見舞いまで 敬具
文京区本郷六ー十八ー十三 東大正門前 十月九日 」
手紙の主は娘さんで、亡くなられた父は勝造さんといい、九十一歳であった。
私の父も同じように、昨年八十六歳で亡くなっていた。私の父はこの勝造さんに、古本の手ほどきを受けたのである。勝造さんは困苦勉励の人で、十三歳の時から古本屋に奉公して、独立開業したのが丁度そのころであった。誠実、堅実、ある意味で頑固、本当に古本屋として、その名に恥じない人であった。
父福男にとって、湯島天神町時代の九年間のブランクは、その後の進路にどんな影響を及ぼしたであろうか。