雨宮智彦のブログ 2 宇宙・人間・古代・日記 

浜松市の1市民として、宇宙・古代・哲学から人間までを調べ考えるブログです。2020年10月より第Ⅱ期を始めました。

雨宮家の物 11 きれい好きの則子さん、台所のテーブルクロスを変えました

2013年05月06日 06時24分54秒 | 雨宮家の物

雨宮家の物 11 きれい好きの則子さん、台所のテーブルクロスを変えました

 大げさな理念や、崇高な目標もだいじですが、理念や目標や観念を実現するための物質的なもの、日常的な「物」がだいじと思い、この「雨宮家の物」コーナーを書いています。

 きれい好きで、片付け大好きの雨宮則子さんと、きれいとかせいけつとかごみとかあまり気にしない雨宮智彦くんが、30数年間も同じ家で、同じ部屋で、なぜいっしょにいられるのか、破断にならないのかは、「雨宮家の7不思議」の第1です(第2から後が何かは知りませんが)。

 夏になるのを前にして、4月末に、台所のテーブルクロスを新調しました。

 こういう視点は、ボクにはないんですね。尊敬します。(うわ、「尊敬してないで、早くゴミを捨てなさい!」と言われそう)。

 そうだ!目の前の事態から行動を起こしていく則子さんと、自分の根源的なと思う思考から自分の行動を起こしていくボクでは、そもそもの方向性が違うんですね。

 だから、二人の人生の違いがあまりにおもしろくて、夫婦生活が30数年、成り立ってるのでないかという「仮説」が立ちます。

 目の前の事態から行動していく則子さんは、過去の事態や現実にあまり気にしないので、家で炊事をしていて、玄関に誰かが来ると、そっちに意識が飛んでしまい、自分が台所で鍋をぐつぐつしていたのは忘れて、新たな事態に全面的に意識を向けてしまえるんですね。

 則子さん、何度、お鍋をこがして、危うく「火事」になりかけた、ことか。

 過去から未来へ時系列で考えている、めんどくさい考え方のボクは、過去にぐつぐつ煮ていた「過去」「お鍋」が気になって、則子さんのように未来へ全面的に身を投げ出すことはできなくて、どうしよう、過去か未来か、いったりきたりするんですね。

 白いメーヴェに乗って、風の谷からどこまでも飛んでいくナウシカのように、則子さんは、白いバイクに乗って、どこまでも飛んでいきます。

 ぼくは、必死になって飛翔するナウシカの後を追っていく、工房都市ペジテのアスベルでしか、ありません。

 宮崎駿さんがマンガ版「風の谷のナウシカ」の中で、ナウシカの相手を、当初のアスベルから、「森の人」に変更したことは、一部のファンにはすごく不評でした。ぼくも、そうです。

 ボクは人類の未来を行動で救おうとするナウシカ=則子さんの後を追って、ナウシカ=則子さんと共に生きようとするアスベルです。

 自分の「思考」の力でも、すこしはナウシカの「行動」の助けになるのではないか、と思いながら、生きてきた30数年、それを書いていけたらと思います。

 仮称『銀河とタンポポ ー雨宮智彦自伝ー』を、近いうちに始めます。則子さんとぼくの物語です。

 


雨宮日記 5月5日(日) 「端午の節句」「薬狩」「子どもの日」でした

2013年05月06日 05時50分39秒 | 雨宮日誌

雨宮日記 5月5日(日) 「端午の節句」「薬狩」「子どもの日」でした

 浜松まつりの最終日、今日もいい天気でした。浜松市では「浜松まつりの3日間のうち1日だけ必ず雨が降る」という「都市伝説」があるのですが、今年はノストラダムスの預言のようにハズレでした。

 今日、次女のアイさんは、昨夜から実家に1人で行って、実家の一家(誰が行ったのかは不明)と則子さんの妹とその娘で、中田島の凧あげ会場に行きました。

 夜は、中心街の今年初めて(今年限りか?)の「ディズニー」パレードと屋台を見たようです。

 午後9時頃に帰って来て、則子さんに「凧は一度は見といたほうがいいよ」と言ってましたから、良かったのでしょう(2度は見なくてもいいという意味か?)。

 ボクが「ディズニーは見えた?」と聞いたら、「ビルの谷間から一瞬見えた」と言ってました。「すごい人で動けなかった」そうです。

  ☆

 全国的にいうと「子供の日」という祝日です。民俗学的にいうと「端午の節句」で、5月5日は、野に出て薬草を摘む「薬狩(くすりがり)」の日です。

 『日本書紀』の推古天皇の19年に「夏五月五日、菟田野(うだの)に薬狩す」とあります。

 「背比べ」は1919年に作られた、海野厚さん作詞、中山晋平さん作曲の童謡ですが「柱の傷はおととしの 五月五日の背比べ ちまき食べ食べ 兄さんが測ってくれた 背のたけ」と歌っています。

 5月5日に「ちまき」や「柏餅」と食べるのは、「ちまき(茅巻)」の「ち」である茅(ちがや)の葉や柏の葉」が薬であり、霊力があるとされていたからです。

 つまり「古代科学」であり、今でも東洋・中国の「漢方薬」になっています。

 ボクの師匠の一人(逢ったこともないですが勝手に「師匠」とさせていただいてます)である加藤文三さんは、この叙述の種本である『民謡歳時記(上)』青木書店(今はもう倒産してないようです)、1980年、の中で「私たちが、なにげなく守ってきた古い行事には、昔からの人びとが病気とたたかうために見つけだしたクスリが、目に見えない形で生かされいるのがわかる」(「17 菖蒲湯」、p217)と書いています。同感です。

 わが「師匠」の人たちについては、「雨宮自伝」のなかで書きたいと思っています。