過去現在未来のメモリーノート 71 「社会主義」研究 2 井尻正二「スターリンを正しく批判できるのは」
「新・本と映像の森 298」で紹介した「井尻正二『科学の階級性ー続科学論』築地書館、1973年」の中の「地質学の根本問題 」(原著昭和27年、増訂版昭和33年、1958年)の注釈に書かれていたことを引用する。
「3-イ・スターリン「弁証法的および史的唯物論について」1938年。<以下、本文で述べる弁証法的唯物論の要綱は、前記のスターリンの労作から引用したものです。
ところが、その後1956年にスターリン批判がおこなわれ、わが国でもそれ以後、“いわゆるスターリン批判”がさかんです。
くわしいことは、小著の目的をはなれるので何も申しませんが、わが国でおこなわれていいるような、いわゆるスターリン批判の本質は、弁証法的唯物論の修正主義がその大部分である、というのが私の結論です。
スターリンを正しく批判できるのは、政治的にも、経済的にも、哲学的(理論的)にも、スターリン以上の実践をして、氏以上の実績をつみあげた者にかぎる、と信じています。
したがって、ここに引用したスターリンの労作は、いまなお光り輝いていますし、すくなくともその論旨が、いわゆるスターリン批判論者のそれよりも簡明である点に学ぶべきだと思います。>」
(井尻正二『科学の階級性ー続科学論』築地書館、「地質学の根本問題」p91)
以下は、ボクの注釈【 1~5 】つき。
「3-イ・スターリン「弁証法的および史的唯物論について」1938年。<以下、本文で述べる弁証法的唯物論の要綱は、前記のスターリンの労作から引用したものです。
ところが、その後1956年にスターリン批判がおこなわれ、わが国でもそれ以後、“いわゆるスターリン批判”がさかんです。 【 1 だから井尻さんは日本でのスターリン批判には反対なのだろうと感じる。3度も「いわゆるスターリン批判」という言葉を使っている。 】
くわしいことは、小著の目的をはなれるので何も申しませんが 【 2 この注釈3自体を書くべきではなかったのではないか。「何も申しません」と言いながら「私の結論です」というんを言い切っているのは科学者の言葉では無くて宗教者の信条告白だろう 】 、わが国でおこなわれていいるような、いわゆるスターリン批判の本質は、弁証法的唯物論の修正主義 【 3 スターリンこそマルクスを「修正」しっている「」だと思う 】 がその大部分である、というのが私の結論です。
スターリンを正しく批判できるのは、政治的にも、経済的にも、哲学的(理論的)にも、スターリン以上の実践をして、氏以上の実績をつみあげた者 【 4 「スターリン以上の実践をして、氏以上の実績をつみあげた者」とは共産党の偉い幹部しか「スターリンを正しく批判」してはいけないということだろう。 】 にかぎる、と信じています。
したがって、ここに引用したスターリンの労作は、いまなお光り輝いていますし、すくなくともその論旨が、いわゆるスターリン批判論者のそれよりも簡明 【 5 スターリンがマルクスを単純化したことにボクは異論はない 】 である点に学ぶべきだと思います。>」
(井尻正二『科学の階級性ー続科学論』築地書館、「地質学の根本問題」p91)
文章を読めばわかるように1956年のフルシチョフによるスターリン批判以後に書かれている。
「新・本と映像の森 296」で扱った「泊次郎『プレートテクニクスの拒絶と受容 新装版』東京大学出版会、2017年」によれば泊次郎さんは「第3章」の注(60)で「『地質学の根本問題(増補改訂)』(地団研、1958年)で『地質学の根本問題』(1952年)で引用したスターリンの『弁証法的と史的唯物論』の一節に注釈をつけ」と書き、以下、この注釈を引用している(p112~113)
ところが井尻正二著『科学論 下』(国民文庫、大月書店、1977年)に載せられた「地質学の根本問題」(p63~118)ではこの注全体が消されてしまっていいる。
すくなくとも科学者であるなら、その重要な部分をなぜ消すのか、検討と結論の表明が必要だろうと思うのです。