核実験・核兵器生産被害ー世界のヒバクシャはいま <前編>
「青い地球」1993年4月特集号 として計画、未発行
第0章 原爆製造の開始
第1章 原爆時代 アメリカ~日本
第2章 水爆実験 ビキニ環礁・1954
第3章 マーシャル島民の運命
第4章 南太平洋で
第5章 旧ソ連
第6章 世界で
第7章 アメリカ本土で
第8章 核保有と核脅迫
第9章 核実験被害者は連帯する
第0章 原爆製造の開始
1942年、原爆製造のための“マンハッタン計画”が極秘のうちに始まった。オークリッジ、ハンフォード、ロス・アラモスの3つの隔離された秘密都市が建てられ、動員された科学者・技術者は15万人に達した。
マンハッタン計画にもとづくウラン採掘によって、アメリカ・アリゾナ州のウラン鉱山労働者に肺癌が多発した。
第1章 原爆時代 アメリカ~日本
1945年7月16日早朝5時半、アメリカ・ニューメキシコ州の砂漠アラモゴードで、世界で最初の原爆実験が行なわれた。世界最初の核爆発は「千の太陽よりも明るく」輝いた。
アメリカは8月6日広島に、8月9日に長崎に原爆が投下し、核時代が始まった。【この項は詳述すること】
アメリカはより強大な核爆弾開発のために、翌1946年から太平洋ビキニ環礁で、ビキニ島民を立ち退かせて「クロス・ロード(十字路)作戦」と呼ばれた原爆実験を始めた。
実験には多数の米軍兵士が参加し、被爆した。
ビキニ島民は、約千キロ南の孤島・キリ島に移住させられた。アメリカは島民の強い要望で1973年、放射能で汚染された表土を取り除き、住宅を建て、ヤシの木を植えて、島民の一部を移住させた。
5年後の1978年、帰島者の放射能汚染値が異常に高くなったため、再びキリ島へ戻った。
1949年に、ソ連がセミパランチンスクで最初の原爆を爆発させ、アメリカの核独占は破れ、米ソの核軍拡競争がエスカレートしていった。ソ連の核実験被害は、40年間ひた隠しにされ、被害者はなんの治療も受けず、放置された。
第2章 ビキニ環礁・1954
原子核の融合による水素爆弾の被害は原爆をはるかに上回った。1954年3月1日ビキニでのアメリカによる最大規模の水爆実験は、15メガトン、広島原爆の1200倍に達した。
ふきあげられた珊瑚礁の放射能を帯びた破片は、死の灰となり、太平洋に、静岡県焼津のマグロ漁船第五福竜丸のうえに、マーシャル諸島の島民のうえにふりそそいだ。
第五福竜丸の23人の乗組員は「急性放射能症」で翌年5月まで入院し、無線長久保山愛吉さんはその年の9月23日亡くなった。その後、交通事故死の1人以外に4人が肝臓ガン、3人が肝臓疾患で死亡した。
太平洋の海は放射能で汚され、日本の漁船856隻以上が汚染され、たくさんの魚が捨てられた。
日本では原水爆禁止の署名運動が各地で始まり、やがて国民的な原水爆禁止運動に高まっていった。翌年には最初の原水爆禁止世界大会が開かれ、日本原水協(原水爆禁止日本協議会)が結成された。
ビキニ事件後もアメリカの核実験は続けられた。
1958年の4月から8月にかけて、エニウェトクを中心にして「ハード・タック第1次作戦」と名付けられた34回の核実験が行なわれた。
58年は地球観測年にあたり、7月から赤道海流調査に参加した海上保安庁の観測船「拓洋」は7月14日から汚染大気に遭遇した。白血球の減少した乗組員も続出し、帰港しての検査で観測員の日向野良治さんが急性放射能症と診断された。
第3章 マーシャル島民の運命
ビキニ・エニウェトクでのアメリカの核実験は66回におよび、マーシャルの島人(しまびと)2百数十人が死の灰で汚染した。
■ビキニ島民
■ロンゲラップ島民
ビキニ環礁から190㎞東のロンゲラップ島では3月1日に島にいた82人は、アメリカ軍によってクエゼリンの米軍基地に隔離され、3年後の57年、島に戻ってからも長く観察の対象とされた。その日、別の島に行っていた190人も「非被曝者」として観察の対象となった。
ふるさとの島じまは、土も海も生き物も、島民が「ポイズン(毒)」と呼ぶ放射能で汚染され、人が住める状況ではなかった。
女性たちに流産が瀕発し、子どもたちも甲状腺障害、白血病におかされた。
ロンゲラップ島民300人は、85年ふたたびふるさとの島を離れて、190㎞南のクェゼリン環礁北端の無人島メジャトをめざした。移住後亡くなった14人の島民のうち7人は10歳以下の子どもだった。移住後も新生児に異常が発生している。
■エニウェトク島民
美しかった珊瑚礁の環礁エニウェトクの北部ルニット島をいま、巨大なコンクリートの蓋が覆っている。1977年、水爆実験でできたクレーターに汚染した土を捨て、その上からドームで塞いだのだった。
エニウェトク島民は、アメリカが「安全」を力説する環礁の南部に住んでいる。
■いまマーシャルは
1975年、ミクロネシア各島の代表者がサイパン島に集って採択した憲法草案の前文は次のように歌ったが、分裂独立となり、発効しなかった。
「海はわれわれを分かつのではなく、ひとつにしてくれる。島々はわれわれを支え、島々が集ってできた国家は、われわれを大きく強くしてくれる。
戦争を知ったが故にわれわれは平和を望む。分割されたが故に統一を望む。 …
支配されたが故に自由を求める。
ミクロネシアの歴史は、いかだやカヌーに乗って海を探検した時に始まった。ミクロネシアの民族は、星の下を旅した時代に生まれた。
世界はひとつの島なのだ」
第4章 南太平洋で
■イギリス核実験
太平洋の核実験はイギリス、フランスによっても、オーストラリアや南太平洋の各地で行なわれた。 1952年10月3日、オーストラリア北西部のモンテ・ベロ島でイギリス最初の原爆が裂裂し、英国は米ソに次ぐ3番目の核保有国になった。
以後、1958年までイギリスの核実験はオーストラリアの砂漠や太平洋の島で行なわれた。砂漠の先住民アボリジニーや実験に動員されたオーストラリア、ニュージーランドの兵士が放射能を浴びたことは、長く無視された。
兵士や住民の声を無視できなくなったオーストラリア政府は84年7月、核実験被害調査委員会を発足させ、1年後、調査委員会は、ワラティンナのアボリジニーが被曝した可能性を認め、何らかの補償をするよう勧告した。
イギリスが5つの核実験場でおこなった21回の大気圏内核実験に参加したイギリス軍兵士は約1万7千人にのぼる。兵士や遺族は「英国被曝退役軍人協会」を組織し、国に補償要求をつきつけている。
オーストラリア本土での核実験に批判が高まったため、イギリスは核実験場を太平洋に移し、1958年から59年にクリスマス島で6回、同島の南東800㎞のモールデン島で3回の核実験を繰り返した。
イギリスの核実験にニュージーランド海軍が危険水域のパトロールと気象観測に動員され、「アトミック・キウィ」と呼ばれる核実験参加のニュージーランド兵は585人にのぼる。
■フランス核実験
フランスの最初の原爆実験は、1960年2月13日に植民地であったアルジェリアのサハラ砂漠・レガヌ実験場で行なわれ、ド・ゴール大統領は「フランス万歳!」と叫んだ。
アルジェリアの独立によって、サハラでの核実験ができなくなったフランスは、南太平洋のフランス植民地であったタヒチ環礁へ実験場を移した。
1966年7月1日フランスはNATOを離脱、7月3日にはムルロア環礁で第1回核実験が行なわれた。
68年8月には初の水爆実験が行なわれた。73年6月にはニュージーランドとオーストラリア政府の提訴による国際司法裁判所の実験中止採決を無視して強行された。77年には3メガトン水爆実験。79年8月には地下トンネルの途中にひっかかったまま爆発し津波を発生させた。
南太平洋ポリネシアのムルロア環礁でのフランスの核実験は120回にものぼり、環礁の玄武岩は地下核実験で穴だらけになり、放射能が洩れでている。
タヒチ人にとって主な食料であるカツオやマグロなど魚が汚染され、住民に被害が多発している。しかし、フランスは安全だと繰り返すだけだった。
実験の中止を求める運動は、タヒチのフランスからの独立を求める運動とも共同してもりあがり、1992年フランスは核実験の1年間停止を余儀なくされた。
第5章 旧ソ連
ソ連はその中心部、ウラル山脈の南、チェリャビンスク郊外に、原爆のプルトニウム製造用の、地図にも出ていない秘密都市キシチョムを作り上げた。この都市は「チェリャビンスク40」の暗号名でよばれた。
放射能で汚染された大量の水を民家が立ち並ぶテチャ川にたれ流し、基準の120倍の放射能が検出された。
1957年9月29日には、“ウラルの核惨事”とよばれる放射性廃棄物の貯蔵タンクの爆発事故が起こり、推計で200万キュリーの放射能が飛び散った。
約1㎞上空まで噴き上げられた放射能は南西の風にのって北東に流れた。
事故の翌年58年にフルシチョフ首相が突然核実験の一方的停止を宣言した理由を、メドヴェージェフは「核兵器の製点であるキシチョムの機能が事故のためマヒしたから」と分析している。
この事故は、19年後の1976年11月、メドヴェージェフがイギリスの科学雑誌『ニューサイエンティスト』に発表した論文で初めて公表された。ソ連政府が公式に認めたのは事故から32年もたった89年6月だった。
1954年9月14日の南ウラルの軍事演習で3~500メートルの空中で原爆を爆発させた。地上の戦車が爆風で吹き飛ばされ、多数の兵士が死傷し、生存者に放射能症が広がっている。(ソ連国防省の機関紙「赤い星」89年10月、ソ連政府機関紙「イズベスチヤ」による)
旧ソ連の最大の核実験場である、カザフスタンのセミパラチンスク実験場は日本の四国ほどの大きさで、その内部に農場や牧場が点在している。
セミパラチンスクから約100㎞、核実験関係者が住む都市クルチャトフは「セミパラチンスク40」の暗号名でよばれ、ソ連の地図には存在しない。核実験の責任者だったベリヤはこの町に住んでいたといわれている。
核実験は農民や遊牧民に無警告で、いつも春の種まきと秋の取り入れの時期におこなわれた。
1953年にはセミパラチンスクで最初の水爆実験がおこなわれた。水爆実験のさい立ち退き区域に含まれていながら命令で置去りにされたカラウル村の40人は「内務省第4診療所」で検査を受けた。40人のうち、ほとんどが40代までにガンか白血病で亡くなり、40年後に6人しか生存していない。
「内務省第4診療所」は今も存在して、市の衛生局幹部でさえ近づけない。検査はするが、治療はしていない。いまもかたくなに資料の公表すらこばんでいる。
セミパラチンスク実験場内には、地下核実験の跡が陥没してできた直径数百メートルの、通称、原子の湖が幾つもあり、強烈な放射能で汚染されている。
1963年核実験が地下に潜ってからも、しばしば放射性ガスが地上に吹き出し、のべ320回の核爆発による深刻な放射能汚染が広がっている。
この地域では白血病やガンが多発し、平均寿命が4、5年短くなり、子どもたちにも奇形や内臓疾患が後をたたない。
40年間、地元の共産党当局は核実験は無害だと公言してきた。
実験による放射能汚染は、国境を越えて北側のロシア共和国アルタイ地方にもおよんだ。
1989年2月、実験場閉鎖の市民運動「ネヴァダ・セミパラチンスク」がスタートした。89年には1 回の地下核実験が計画されたが、11回は中止された。
セミパラチンスク実験場は、住民の声におされて1991年8月閉鎖された。
ソ連の東の端にあるチュコト民族管区では、50~60年代の大気圏核実験の死の灰で住民にガンが多発し、平均寿命はわずか45歳に低下している。
とくに汚染されたこけ類を食べるトナカイを常食にしているチュクチ人に食物連鎖でセシウム137の体内蓄積が進み、蓄積量はトナカイを常食にしない人の100倍にも達している。(「モスクワニュース」89年8月)
ソ連は核軍拡体制の重みで崩壊したが、まだ、ロシアに 発の核兵器が残っている。
<つづく>