過去現在未来のメモノート 93 『資本論』の「社会的バリケード」という訳語について 20201114
『資本論』の「社会的バリケード」という訳語について
『資本論』の「第1部第3篇第8章 労働日」に、こういう文章がある。
「自分たちを悩ます蛇にたいする「防衛」のために、労働者たちは結集し、階級として1つの国法を、資本との自由意志契約によって自分たちとその同族とを売って死と奴隷状態とにおとしいれることを彼ら自ら阻止する強力な社会的防止手段を、奪取しなければならない。
「譲ることのできない人権」のはでな目録に代わって、法律によって制限された労働日というつつましい“大憲章”が登場する。」
(新日本出版社、新書版『資本論 ②』1983年、p525、ドイツ語原書p320)
この「社会的防止手段」について、不破哲三さんが最初に「社会的バリケード」という訳語を提唱したのは前から知っている。その後、不破哲三さん自身がいろいろな論文のなかで繰り返したから。
その最初は『赤旗 2020年4月15日』(7)面、「キーワードに見る資本論 ③」によれば、『古典教室 第1巻』のなかで言ったのが初めのようです。
別に異議はないのですが、最近になって思うのは、語感として抽象的な概念である「社会的防止手段」を具体的なイメージを伴う「社会的バリケード」という言葉に変えたほうがいいかどうか。
「バリスト」という言葉がある。今は死語だと思うが、1960年代末期に学生運動で「バリケード・ストライキ」のことを縮めてそう言った。
いまは「バリケード」をネット検索すると道路に置く木の通行禁止標識が出てくる。本来は革命や戦乱のときに特に都市で使われる実力防衛手段だと思う。
たぶん運動活動家の思う「バリケード」語感と一般市民の「バリケード」語感が違うような気がする。これは、論議の余地があると思う。
ボクが外へ出て「バリケード」語感についてアンケート調査することも肉体的にできないし、論議した論文なり評論を見た覚えもない。
「もっと論議を!」
☆
もう1つは、ボクがたぶん数年前、丸山真男さんの『日本の思想』(岩波新書、1961年)を読んでいて見つけた文章を紹介する。
「ヨーロッパに見られたような社会的栄誉をになう強靱な貴族的伝統や、自治都市、特権ギルド、不入権をもつ寺院など、国家権力にたいする社会的なバリケードがいかに脆弱であったかがわかる。前述した「立身出世」の社会的流動性がきわめて早期に成立したのはあまそのためであった。・・・・・・(中略)・・・・・・ともかく、条約改正を有力なモチーフとする制度的「近代化」は社会的バリケードの抵抗が少なかっただけに、国家機構をはじめてする社会各分野にほとんど無人の野を行くように進展した。」
(p45)
このように「社会的なバリケード」「社会的バリケード」と使われている。丸山真男さんの前に先行使用があるのだろうか。それとも丸山真男さんの独自用語だろうか。
いずれにしても、1980年代に共産党は「丸山理論批判」を大会決定までして広げた。不破哲三さんが丸山真男さんの『日本の思想』を読んでないということは、絶対言えないと思う。目を通したはずだ。
すくなくとも記憶にあったら、「社会的バリケード」の先行使用の例に触れるべきだし、不破哲三さんが万一知らなかったら、科学的社会主義の周囲の人が教えてあげるべきと思う。それが科学の世界です。
『資本論』の「社会的バリケード」という訳語について
『資本論』の「第1部第3篇第8章 労働日」に、こういう文章がある。
「自分たちを悩ます蛇にたいする「防衛」のために、労働者たちは結集し、階級として1つの国法を、資本との自由意志契約によって自分たちとその同族とを売って死と奴隷状態とにおとしいれることを彼ら自ら阻止する強力な社会的防止手段を、奪取しなければならない。
「譲ることのできない人権」のはでな目録に代わって、法律によって制限された労働日というつつましい“大憲章”が登場する。」
(新日本出版社、新書版『資本論 ②』1983年、p525、ドイツ語原書p320)
この「社会的防止手段」について、不破哲三さんが最初に「社会的バリケード」という訳語を提唱したのは前から知っている。その後、不破哲三さん自身がいろいろな論文のなかで繰り返したから。
その最初は『赤旗 2020年4月15日』(7)面、「キーワードに見る資本論 ③」によれば、『古典教室 第1巻』のなかで言ったのが初めのようです。
別に異議はないのですが、最近になって思うのは、語感として抽象的な概念である「社会的防止手段」を具体的なイメージを伴う「社会的バリケード」という言葉に変えたほうがいいかどうか。
「バリスト」という言葉がある。今は死語だと思うが、1960年代末期に学生運動で「バリケード・ストライキ」のことを縮めてそう言った。
いまは「バリケード」をネット検索すると道路に置く木の通行禁止標識が出てくる。本来は革命や戦乱のときに特に都市で使われる実力防衛手段だと思う。
たぶん運動活動家の思う「バリケード」語感と一般市民の「バリケード」語感が違うような気がする。これは、論議の余地があると思う。
ボクが外へ出て「バリケード」語感についてアンケート調査することも肉体的にできないし、論議した論文なり評論を見た覚えもない。
「もっと論議を!」
☆
もう1つは、ボクがたぶん数年前、丸山真男さんの『日本の思想』(岩波新書、1961年)を読んでいて見つけた文章を紹介する。
「ヨーロッパに見られたような社会的栄誉をになう強靱な貴族的伝統や、自治都市、特権ギルド、不入権をもつ寺院など、国家権力にたいする社会的なバリケードがいかに脆弱であったかがわかる。前述した「立身出世」の社会的流動性がきわめて早期に成立したのはあまそのためであった。・・・・・・(中略)・・・・・・ともかく、条約改正を有力なモチーフとする制度的「近代化」は社会的バリケードの抵抗が少なかっただけに、国家機構をはじめてする社会各分野にほとんど無人の野を行くように進展した。」
(p45)
このように「社会的なバリケード」「社会的バリケード」と使われている。丸山真男さんの前に先行使用があるのだろうか。それとも丸山真男さんの独自用語だろうか。
いずれにしても、1980年代に共産党は「丸山理論批判」を大会決定までして広げた。不破哲三さんが丸山真男さんの『日本の思想』を読んでないということは、絶対言えないと思う。目を通したはずだ。
すくなくとも記憶にあったら、「社会的バリケード」の先行使用の例に触れるべきだし、不破哲三さんが万一知らなかったら、科学的社会主義の周囲の人が教えてあげるべきと思う。それが科学の世界です。