雨宮智彦のブログ 2 宇宙・人間・古代・日記 

浜松市の1市民として、宇宙・古代・哲学から人間までを調べ考えるブログです。2020年10月より第Ⅱ期を始めました。

過去現在未来のメモリーノート 76 哲学思想ノート 1 『資本論』 2 労働者の意識を無視していいのか? 20200219

2020年02月19日 09時25分06秒 | 過去現在のメモノート


過去現在未来のメモリーノート 76 哲学思想ノート 1 『資本論』 2 労働者の意識を無視していいのか? 20200219


「生産当時者」は誰か?  雨宮智彦  20200215

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 マルクスは『資本論 第3部』冒頭の「第1編、第1章 費用価格と利潤」の最初、まとめ的文章の末尾で、こう書いています。

 「したがって、われわれがこの第3部で展開するような資本の諸姿容は、それらが社会の表面で、さまざまな資本の相互の行動である競争のなかに、また生産当事者たち自身の日常の意識のなか現われる形態に、一歩一歩、近づく。」
 (引用は新日本出版社上製版、『Ⅲa』p46。原書p。上製版は新書版とほとんど同じ訳だがページ数はすこし違います。)

 この「生産当事者」とは誰のことでしょうか。「生産者」のことで同義語なのでしょうか、それとも違った概念なのでしょうか。

 ボクはこれから『資本論』のなかを「生産当事者」と「生産者」の用語を探索し推理していきたいと思います。これは途中経過報告です。

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 ひとつだけ、この「生産当事者」と「生産者」の概念をこれから学習していくうえで事前に触れておかなければならないと思う指摘があります。

 それは不破哲三さんが『『資本論』全三部を読む 第五冊』(新日本出版社、2004年)で強調している点です。223ページから224ページにかけて不破哲三さんは次のように述べています。

「ここは、非常に大事なところです。マルクスの説明を少し立ち入った形で考えましょう。マルクスがここでいう「生産当事者」とは、主として資本家のことです。
 もちろん、労働者も地主も、資本主義社会における「当事者」であることは間違いありませんが、第3部で問題になる「具体的諸形態」との関連でいうと、研究の対象としていちばん大きな比重を占める「生産当事者」は、資本家たちです。
 つまり、第3部で研究する資本の運動の「具体的諸形態」は、資本家がふだん持っている意識(「日常の意識」)のなかに現れる形態に、いよいよ近づいてゆく、そのことが指摘されているのです。これは、これからの研究を理解する上で、要をなす問題の1つです。」

 所論のため不破哲三さんの文章を次のように分けてみます。

「【 1A 】ここは、非常に大事なところです。マルクスの説明を少し立ち入った形で考えましょう。【 1B 】マルクスがここでいう「生産当事者」とは、主として資本家のことです。
 【 2A 】もちろん、労働者も地主も、資本主義社会における「当事者」であることは間違いありませんが、【 2B 】第3部で問題になる「具体的諸形態」との関連でいうと、研究の対象としていちばん大きな比重を占める「生産当事者」は、資本家たちです。
 【 3A 】つまり、第3部で研究する資本の運動の「具体的諸形態」は、【 3B 】資本家がふだん持っている意識(「日常の意識」)のなかに現れる形態に、いよいよ近づいてゆく、【 3C 】そのことが指摘されているのです。これは、これからの研究を理解する上で、要をなす問題の1つです。」

【 1A 】【 2A 】【 3A 】【 3C 】は、マルクスが言っていることで、ボクもそのとおりと思います。しかし【 1B 】【 2B 】【 3B 】は少し違和感がありました。

 不破哲三さんは「マルクスがここでいう「生産当事者」とは、主として資本家のことです。」【 1B 】と述べ、その理由として「第3部で問題になる「具体的諸形態」との関連でいうと、研究の対象としていちばん大きな比重を占める「生産当事者」は、資本家たちです。」【 2B 】と述べています。

 なぜ「生産当事者」を資本家に限定するのでしょうか。「生産当事者」は「資本家と労働者」ではいけないのでしょうか。

 もし不破哲三さんの説が正しいとすると、『資本論 第3部』は「生産当事者」である労働者の意識をまったく無視して論述を進めていることになります。

 それは『資本論』に重大な不備があるというに等しい指摘で、マルクス主義者であるボクとしては、従えない指摘です。

 なにか不破哲三さんは勘違い・思いこみがあるのではないでしょうか。不破哲三さんの文章には証拠が書いていないので研究のしようがありませんが。

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 全体として『資本論』には「資本家」についての指摘が大半です。それはあたりまえのことではないでしょうか。資本主義社会の直接の「生産当事者」である「資本家」と「労働者」を比べれば資本家が「主体」であり、労働者は資本家に動かされる「客体」です。

 それだけではなく「資本家」自体が「資本の人格化」であり、資本主義社会での真の主体は「資本」であるということはマルクスが『資本論』でいっているとおりだと思います。

 つまり二重の意味で、主体移転が「労働者 ⇒ 資本家 ⇒ 資本」とおきて労働者と国民は二重の意味で主体でなくなっているのだと思います。

 そういう資本主義社会の基本について触れずに、マルクスが資本家の叙述だけに集中していると理解するから、すこし変なのだと思います。

 「第3部、第1編、第2章 利潤率」で「主体と客体との転倒のいっそうの発展」(上製版Ⅲa p75、原書p55)もそういう意味で理解したい。




 「第2編 利潤の平均利潤への転化、第12章 補遺、第3節」では「この諸関係の担い手たちおよび当事者たちがこの諸関係を明らかにしようと試みる諸観念」(p354、原書p219)とある。

 ここでいう「この諸関係の担い手たちおよび当事者たち」には資本家と労働者が基本的に入るのではないかと思う。

 そnすぐあとで「資本家たち」と書いているのは客体である労働者を具体的に叙述していないのは主体である資本家を描いているだけで、マルクスは資本家だけを研究しているわけではないと思う。

 『資本論』とくに第3部で論述している「意識」は「資本家の意識」だけとは思えない。「労働者の意識」も含めた「全国民的意識」だと思う。

 もっと『資本論』全巻と関連用語を調べていこうと思う。

 未完。2020年2月15日。


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