思考ノート 12 過去ログ 1 弁証法 メモリーノート62「弁証法哲学 hp原稿 2006初稿」 20220330
過去現在未来のメモリーノート 62 「弁証法哲学 hp原稿 2006初稿」 20190523
2019年05月23日 10時56分00秒 | 過去現在のメモノート
2006年、つまり13年前に書いた原稿が出てきたので、ここに載せておく。無意味ではないと思う。
ほとんど井尻正二さんの影響下にあると思う。
現時点では、ぼくたちの哲学は「唯物論+形式論理学+弁証法」というのが正しいと重う。「弁証法的唯物論」または「唯物弁証法」だけでは間違いというボクの結論です。
以下、引用。
「弁証法哲学 hp原稿
目次
形式論理と弁証法論理 2006/2/24初稿
展開と発展 2006/2/24初稿
本文
形式論理と弁証法論理
世の中には、形式論理に従う事物と、弁証法論理に従う事物とがあります。通常の機械や建物は、形式論理に基づいて、建設されます。
論理学の初歩は、まず形式論理学で、A=A、です。建てた家Aが、勝手に家Bになったりしたら、あぶなくて家に住めません。
よく弁証法でいう「対立」の実例としてあげられる、「上と下」「北と南」などは、形式論理学的な事物の問題ですから、弁証法の実例としてあげられるのは不適当であると考えられます。
また、機械的な位置移動運動や力学的運動にも、弁証法は該当しません。
弁証法論理に従う事物は、こういう形式論理学に従う現象とは違って、自ら変化発展していきます。
たとえば生命の成長や生物進化、社会発展などの現象です。
マルクスは、資本主義社会の発展を『資本論』で詳細に分析して、その発展を跡づけました。
このような弁証法哲学の初歩を、いろいろ考えていきたいと思います。
(2006/2/24up)
展開と発展
弁証法の教科書にも、しばしば混同されているのが、「展開」と「発展」です。
「展開」とは、たとえば蝶が卵から誕生して毛虫になり、成長して蛹になって、蝶になるような、あらかじめプログラミングされた決定された過程です。
条件によって、死んだりしてしまうことはありますが、魚でも、雄が雌になったりすることはありますが、たとえばアゲハチョウがアゲハチョウ以外の種になることはありません。
これにたいして、「発展」とは、もっと飛躍と可能性に満ちた、プロセスであって、生物進化や社会発展のように、あらかじめ、どんな進化がおこなわれるか、どんな社会に発展していくか、詳細に定められているわけではありません。
生物進化の歴史では、しばしば生物種の大量絶滅をおこすような危機的な地球環境とそれを乗り越えて、新しい生物が誕生することが何回もありました。
このような「発展」の真の姿を考えていきたいと思っています。
(2006/3/1up)」
これに関連して去年、載せた「過去現在未来のメモリーノート 25 哲学の基本概念「弁証法」について」をそのままコピーしておく。今はあんまり、これを思考する時間というか精神的余裕がないので。
「過去現在未来のメモリーノート 25 哲学の基本概念「弁証法」について
2018年07月27日 06時43分13秒 | 過去現在のメモノート
過去現在未来のメモリーノート 25 哲学の基本概念「弁証法」について
哲学の基本概念「弁証法」について
哲学の本には、よく「弁証法」のことが出ている。その「弁証法」がすべての現象に妥当するかのように書かれているとボクはウソと言いたくなる。
弁証法がすべてに正しい現象であるというのは証明されていないことだと思います。証明しているという人はそれを見せて欲しい。
ボクはやはり「弁証法」というのはすべてに普遍的に妥当する現象ではなく重要ではあるが部分的現象であると思う。
では世界はどうなっているか。
以前書きかけた小論の目次を借りよう。こう書いた。
「1、形式論理学でつくられる「展開しない」・「発展しない」事物
2、あらかじめプログラミングされた弁証法的「展開」をする原子や分子、生物
3、生物進化・人間の歴史=社会発展は結果の未定な「発展」」
つまり、この3つの異なる事物を峻別することから哲学を始めたい。まず「展開」「発展」のない非弁証法的な事物と弁証法的な事物を区別すること。
つぎに弁証法的な事物のなかで「展開」と「発展」とを区別すること。以上のことは端緒でであり、すべて今後の論述による。
自分でも未成熟な言い方であり何かが欠けているような気もするが現時点の思考として、書いておく。
以上は古生物学者井尻正二さんの論著に多くをよる。ただし井尻正二さんの主張がすべて正しいと言っているわけではない。」
過去現在未来のメモリーノート 62 「弁証法哲学 hp原稿 2006初稿」 20190523
2019年05月23日 10時56分00秒 | 過去現在のメモノート
2006年、つまり13年前に書いた原稿が出てきたので、ここに載せておく。無意味ではないと思う。
ほとんど井尻正二さんの影響下にあると思う。
現時点では、ぼくたちの哲学は「唯物論+形式論理学+弁証法」というのが正しいと重う。「弁証法的唯物論」または「唯物弁証法」だけでは間違いというボクの結論です。
以下、引用。
「弁証法哲学 hp原稿
目次
形式論理と弁証法論理 2006/2/24初稿
展開と発展 2006/2/24初稿
本文
形式論理と弁証法論理
世の中には、形式論理に従う事物と、弁証法論理に従う事物とがあります。通常の機械や建物は、形式論理に基づいて、建設されます。
論理学の初歩は、まず形式論理学で、A=A、です。建てた家Aが、勝手に家Bになったりしたら、あぶなくて家に住めません。
よく弁証法でいう「対立」の実例としてあげられる、「上と下」「北と南」などは、形式論理学的な事物の問題ですから、弁証法の実例としてあげられるのは不適当であると考えられます。
また、機械的な位置移動運動や力学的運動にも、弁証法は該当しません。
弁証法論理に従う事物は、こういう形式論理学に従う現象とは違って、自ら変化発展していきます。
たとえば生命の成長や生物進化、社会発展などの現象です。
マルクスは、資本主義社会の発展を『資本論』で詳細に分析して、その発展を跡づけました。
このような弁証法哲学の初歩を、いろいろ考えていきたいと思います。
(2006/2/24up)
展開と発展
弁証法の教科書にも、しばしば混同されているのが、「展開」と「発展」です。
「展開」とは、たとえば蝶が卵から誕生して毛虫になり、成長して蛹になって、蝶になるような、あらかじめプログラミングされた決定された過程です。
条件によって、死んだりしてしまうことはありますが、魚でも、雄が雌になったりすることはありますが、たとえばアゲハチョウがアゲハチョウ以外の種になることはありません。
これにたいして、「発展」とは、もっと飛躍と可能性に満ちた、プロセスであって、生物進化や社会発展のように、あらかじめ、どんな進化がおこなわれるか、どんな社会に発展していくか、詳細に定められているわけではありません。
生物進化の歴史では、しばしば生物種の大量絶滅をおこすような危機的な地球環境とそれを乗り越えて、新しい生物が誕生することが何回もありました。
このような「発展」の真の姿を考えていきたいと思っています。
(2006/3/1up)」
これに関連して去年、載せた「過去現在未来のメモリーノート 25 哲学の基本概念「弁証法」について」をそのままコピーしておく。今はあんまり、これを思考する時間というか精神的余裕がないので。
「過去現在未来のメモリーノート 25 哲学の基本概念「弁証法」について
2018年07月27日 06時43分13秒 | 過去現在のメモノート
過去現在未来のメモリーノート 25 哲学の基本概念「弁証法」について
哲学の基本概念「弁証法」について
哲学の本には、よく「弁証法」のことが出ている。その「弁証法」がすべての現象に妥当するかのように書かれているとボクはウソと言いたくなる。
弁証法がすべてに正しい現象であるというのは証明されていないことだと思います。証明しているという人はそれを見せて欲しい。
ボクはやはり「弁証法」というのはすべてに普遍的に妥当する現象ではなく重要ではあるが部分的現象であると思う。
では世界はどうなっているか。
以前書きかけた小論の目次を借りよう。こう書いた。
「1、形式論理学でつくられる「展開しない」・「発展しない」事物
2、あらかじめプログラミングされた弁証法的「展開」をする原子や分子、生物
3、生物進化・人間の歴史=社会発展は結果の未定な「発展」」
つまり、この3つの異なる事物を峻別することから哲学を始めたい。まず「展開」「発展」のない非弁証法的な事物と弁証法的な事物を区別すること。
つぎに弁証法的な事物のなかで「展開」と「発展」とを区別すること。以上のことは端緒でであり、すべて今後の論述による。
自分でも未成熟な言い方であり何かが欠けているような気もするが現時点の思考として、書いておく。
以上は古生物学者井尻正二さんの論著に多くをよる。ただし井尻正二さんの主張がすべて正しいと言っているわけではない。」
たとえば、マルクスがエンゲルス宛の書簡で『資本論』第一巻の科学的意義の第一にとりあげている、商品のもっている二つの要因――使用価値と交換価値、商品でしめされる労働の二重性格の分析などは、マルクスの弁証法的唯物論によってはじめて解かれた秘密のようにいう人がある。しかし、これをわれわれの目でみれば、貨幣が資本に転化して運動をはじめるまでの諸分析とともに――たとえ、そのかげに弁証法的唯物論の力が働いているにしても――ギリギリの極限までに駆使されたマルクスの論理学(形式論理学)があずかって力があるように読みとられる。
このガッチリした、透徹な論理性が、商品の二重性格をあばきだし、二つの価値の差異――現実的には、まだ、矛盾に転化していないが、矛盾に転化する必然性をもった差異――の正しい理解となり、貨幣が資本に転化して運動をはじめるとともに、弁証法が前面におしだされてくるように理解される。
ここには、形式論理学と弁証法のみごとな結合の模範がしめされていて、今後の研究課題になるものと思われる・・・
「基本矛盾」にかんする松村氏の見解は次の二点に要約できよう。
(1)マルクス主義では従来、資本主義社会の「基本矛盾」として生産の社会的性質と所有の私的性質との対立があげられてきた。つまり、生産力が発達し、生産のあり方および生産手段が本質的に社会的なものになったのにもかかわらず、個人としての資本家が生産手段の私有を理由に生産物を取得するという矛盾である。なるほど、生産が社会的かつ私的である、所有が社会的かつ私的である、と表現されれば、これは論理矛盾となろう。だが、ここでは主語が異なっており、社会的なのは生産であり、私的であるのは所有である。だから、現実の矛盾(弁証法的矛盾)は矛盾律を犯さない。
(2)「基本矛盾」とは、生産の社会的性質が所有の私的性質を現実に除去する方向に働いており、所有の私的性質が生産の社会的性質の欲求を妨げるという状態である。ここではあい異なる二つの力が衝突しあい、相互に排斥しあっている。
見田氏は『資本論』そのものに依拠することによって、松村氏に次の批判をおこなった。
「これはいま見たマルクスの資本主義の基本的矛盾のつかみ方とはまったくちがっている。ここでは、生産の社会化すなわち社会的生産力は、一方的にただ所有の私的(資本主義的)な性質を疎外するだけのものとなっており――これではそもそも生産の社会化がどうして資本主義とならんでそこに在るのか、その由来も根拠もわからない――、私的(資本主義的)な所有の性質はただひたすら生産の社会化を妨げるだけのものとなっており――これでは資本主義制度の歴史的な積極的意義は否定され、はじめからただうち倒されねばならぬだけの否定的対象となっている。そしてここではたがいに依存することなく自立的に存在している二つのものがたがいにたたかっているのであるから、この闘争の結末がどちらの勝利をもって終るのか、資本主義的所有制度が存続するのか滅びるのか、この肝腎のことがすこしも明らかにされていない。つまりこの『現実的矛盾』はこの闘争関係の変化の原動力とはなっていない。」P291~292
* 『ポスト・マルクス主義の思想と方法』島崎 隆著 こうち書房 1997