本と映像の森 294 レーニン「カール・マルクス」より真理論
マルクス主義を考える ① 真理とはなにか
レーニン「カール・マルクス」(1913年執筆)、「マルクスの学説」より引用
「マルクス主義とは、マルクスの見解と学説の体系である。マルクスは、人類の3つのもっとも先進的な国に属する19世紀の3つの主要な思想的潮流の継承者であり、天才的な完成者であった。この潮流とは、ドイツの古典哲学、イギリスの古典経済学、一般にフランスの革命的諸学説と結びついたフランス社会主義である。マルクスの見解は、彼の敵でさえ認めているように、すばらしく首尾一貫した全一的なものであって‥‥」1965年発行の大月書店、国民文庫版p14~15
レーニン「マルクス主義の3つの源泉と3つの構成部分」(1913年執筆)より、同じく、p84~85
「マルクスの学説は、正しいので全能である。それは、完全で、整然としていて。どんな迷信、どんな反動ともあいいれず、ブルジョア的圧制を擁護することにはおよそあいいれない全一的な世界観を人々にあたえる。」
ぼくの見解
ぼくたちにとって「正しい」とは相対的正しさであり、その範囲・時代を超えたら「正しい」かどうかはわかりません。ゆえに「正しいから全能である」という判断は「正しくない」判断です。
「マルクスの学説は「正しいから全能である」というのは誤りであり「マルクスの学説は相対的に正しいが、科学であるから、全能ではないし、全一的でもなく、個々の科学的判断で修正することができる」と規定すべきである。でなければ科学ではなくなってしまう。
「すばらしく首尾一貫した全一的なもの」にその時点で見えたとしても、それは具体的に論証しなければならないし、つねに全一的ではありえない。
「マルクス主義とは、マルクス及びマルクスの見解と学説を相対的に科学的で正しいと認め、その科学性を継承しようとする後継科学者たちの見解と学説の体系である。」
「マルクスを自分だけが継承・発展させたと称するスターリンや毛沢東は、当然このなかに入らない。レーニンや雨宮智彦など、個々の個人や集団がこの中に入るかどうかは、当然、その個人・その集団自身の判断だけでは決まらない。」入りたいと努力していますけど。
マルクス崇拝は、マルクス主義者では、まったくない。科学的社会主義ではない。宗教的社会種主義である。マルクスを絶対的に崇拝するのはマルクス教徒である。ぼくは「マルクス教徒」では、ないです。宗教を批判しているのではありません。宗教者の方でも、ぼくは現実の課題で、一致点で共闘しています。ただ、ぼくは宗教者ではないです、という客観的な事実を述べています。
何かの文献を読んで、即、時間差なしに、「これはすばらしい」と絶賛するのは科学的な具体的検討を経ていないから、当然それは宗教であって、科学ではありません。
科学的検討には、文献批判・具体的実験など、一定の時間が必要である。そこに自分の時間と自分の費用を投入する決意も必要である。
そこに、自己を投入する決意抜きに、科学は存在できない。
エンゲルスは、デューリング反論のために、そういう決意をするのに、かなりの時間が必要であったのは、エンゲルスが自分で書いたように、よく知られている。
なぜ、レーニンの1913年の規定がこうなったか、いま少しわかりかけきたので、いずれ書くつもりです。
今、8時11分に気がついたのですが、レーニンの2論文から、昨年で、ちょうど100年ですね。
公式文献、雑誌で、「カールマルクス」「マルクス主義の3つの源泉と3つの構成部分」100年論文を見た覚えがありません。『前衛』にしろ『経済』にしろ、無視しているのは残念です。肯定するにしろ、具体的にこういう理由で否定するにしろ。
きちんと皆で評価しましょう。もし、評価をぼくが見落としていたら、具体的にご指摘ください。