雨宮智彦のブログ 2 宇宙・人間・古代・日記 

浜松市の1市民として、宇宙・古代・哲学から人間までを調べ考えるブログです。2020年10月より第Ⅱ期を始めました。

雨宮日記 2020年3月8日(日) 国際女性デーでした

2020年03月08日 21時15分43秒 | 雨宮日誌


雨宮日記 2020年3月8日(日) 国際女性デーでした

 昨夜から雨でした。

 3月5日は啓蟄(けいちつ)で虫や蛙が這い出てくる季節。虫が「拝啓」と「執行」する日のようです。

 国際女性デーでしたが、浜松でも予定された国際女性デー浜松集会は新型コロナウイルスのため中止されました。いまいち、いいのかなという感じはします。

 でも、新型コロナウイルスはますます拡がってます。



ことばと詩 26 雨宮智彦語録 ① しつこさだけが…… 20200308

2020年03月08日 21時14分54秒 | ことばと詩

ことばと詩 26 雨宮智彦語録 ① しつこさだけが…… 20200308


 『雨宮智彦語録』という本があるわけではありません。

 「雨宮智彦語録 ①」は「しつこさだけが人生だ」というものです。もちろん自分の人生の1面だと思います。反面、すぐ簡単に変更するのもボクです。

 誰かのことばに「やさしさだけが人生だ」というのがあったかどうか。うろ覚え。



雨宮智彦哲学経済学メモリー 16 20200307 哲学の学習 11  「量」と「質」を考えます、その2 どっちが先 20100310

2020年03月07日 22時13分48秒 | 過去現在のメモノート

雨宮智彦哲学経済学メモリー 16 20200307 哲学の学習 11  「量」と「質」を考えます、その2 どっちが先 20100310


「哲学の学習 11  「量」と「質」を考えます、その2 どっちが先
2010年03月10日 04時03分50秒 | 人間・生命・宇宙

 量と質、あるいは質と量は、相補的な概念として考えられています。

 (相対立する概念という言い方・考え方もあるかもしれませんが、私はそういう「対立物」ではなく「相補物」として考えたいと思います。)

 では、人類の認識の歴史では、量と質、質と量、どちらが、先に認識されたのでしょうか。

 量とは、たとえば、1つ、2つ、というように、「数詞」=「言語」なしには、とらえられません。

 分離量であれ、連続量であれ、「数える」ことなしには、認識できません。
 
 でも、質は、たとえば「涼しい」「暑い」「でかい」「小さい」「丸」「四角」「植物」というように、言葉なしのイメージとして認識できるのではないでしょうか。

 あるいは、「なんかいやだ」「逃げないと」「心地よい」「好きだ」「嫌いだ」という感情。

 言語をもつ段階以前の人類、あるいは神経と脳のある動物たちは、みんな、「質感」を言葉としては表現できなくても、感覚しているのではないでしょうか。

 ですから、量よりも,質の方が人類の認識史から考えても先ではないでしょうか。」


雨宮日記 2020年3月6日(金) 体が自由だったら

2020年03月06日 16時04分57秒 | 雨宮日誌

雨宮日記 2020年3月6日(金) 体が自由だったら

 右半身麻痺なのはときにいらいらする。もし体が自由だったら、ぜったい車を運転して「お店調査」をやっているのだけれど。トイレットペーパやマスクはあるかなど。

 もう1つは「浜松の調査・発信するブログ・ツイッターの集合体」みたいなものを作りたいと思った。マスコミを見ているだけで1人ひとりが情報の「客体」であるだけじゃいけないと思う。1人ひとりが情報の「主体」でもあるように。

 誰か相談にのってくれる人はいませんか?

 それで人間のバランスがとれるし、「ニセ情報のエジキ」にもなりにくくなる。


雨宮智彦哲学経済学メモリー 15 20200306  哲学の学習 10 「量」と「質」を考えます、その1 20100302

2020年03月06日 15時51分49秒 | 過去現在のメモノート

雨宮智彦哲学経済学メモリー 15 20200306  哲学の学習 10 「量」と「質」を考えます、その1 20100302


「哲学の学習 10 「量」と「質」を考えます、その1
2010年03月02日 04時14分02秒 | 人間・生命・宇宙

 ある「教科書」(87年度ですから23年前でかなり古いですけど、全面改定したという話も聞かないので、もし、今はかなり違っていたら許してください)に、次のように書かれています。

 「世界におけるすべての事物は、質の側面と同時に量の側面をもっており、そして、この質の側面と量の側面には切りはなすことのできない密接な関係があります。」
 この叙述は賛成です。
 
 次に「「それはどんなものか」という問いに対応する事物の側面、それが質です。つまり、質とは、ある事物を他の事物から区別する特徴・性質の総体のことをさします。」書いています。これも、まあいいかな。

 叙述は、質の具体的例として、「資本主義」と「社会主義」の質の違い、別の例として、液体状態にある「水」と気体状態にある「水蒸気」の違いをあげています。

 1987年なので、まだソ連のいつわり「社会主義」崩壊の前で、まだ日本共産党の認識が、ソ連社会主義は社会主義ではなく、歪んだ別の種類の社会である、というところには到達していない段階ですから、仕方ないですね。

 では、量とはなんでしょうか。

 同書では「量とは、長さ、広さ、重さ、温度、速度、人数など、「どれだけか」という問いに対応する事物の側面、つまりなんらかの単位で測定できる事物の側面のことです。10万人のデモ隊、40度の湯、1日1時間の学習などという時、問題にされているのが量の側面です。」と明確に書かれています。

 つまり「量」とは「単位で測定できる事物の側面」だと主張しています。でも、ここでちょっと立ち止まって考えてみました。

 たとえば温度、現代では温度計で、どんな温度でも測ることができますが、それは温度計ができてからの話です。

 それまでは「今日は暑いね」「今日は寒いね」という感覚で会話がされています。
 
 「熱い」「冷たい」「暑い」「寒い」「大きい」「小さい」「速い」「遅い」などのけいようしをすべて「量」であると強弁するなら別だけど、事物の同じ側面を「量」として表現すると同時に「質」として表現することができるのではないでしょうか。

 つまり「事物の側面」の中には、同時に「量」であり「質」であるような側面がある。

 「事物の側面」の中には、「優しい」「きれい」「美人」のような質的にだけ表現ができて、量的表現ができない側面もあるのかな。

 だれか「美人」という質を量に変える「美人指数」を発明できれば、すごいですね。

 なんだか、本題から逸れてきたような気もしますが。量と質を考える第1回目とします。」



雨宮日記 2020年3月5日(木) 未来は不確定

2020年03月05日 22時33分02秒 | 雨宮日誌

雨宮日記 2020年3月5日(木) 未来は不確定

 予定の集会やイベントが中止または延期になるものが多くて、「未来は不確定」という結論になった。こういう状況でなくても同じだけど。

 密度の高い会議でした。疲れた。それで今日はこれまで。短い日記でした。



雨宮智彦哲学経済学メモリー 14 20200304 哲学の学習 9 「安定」「固定」と「変化」「発展」の関係 20100225

2020年03月04日 13時38分18秒 | 過去現在のメモノート

雨宮智彦哲学経済学メモリー 14 20200304 哲学の学習 9 「安定」「固定」と「変化」「発展」の関係 20100225


「哲学の学習 9 「安定」「固定」と「変化」「発展」の関係
2010年02月25日 04時33分37秒 | 人間・生命・宇宙

 「ものごとはすべて変化・発展する」かどうか、という学習の続きです。

 「変化」とは何かということですが、「ある物あるいはある物事」の「要因」「要素」「属性」の一部の量あるいは質が変化することではないかと思います。
 ただし、「ある物あるいはある物事」の統一性というか、「ある物がある物である量と質」「ある物事がある物事である量と質」は保っているので、連続性はあるわけです。

 たとえば「ある物A」の属性「a、b、c、d・・・・」とするとき、属性aがa1からa2に変化しても「A」が「A」であることに変わりありません。
 
 連続性とは何かというと、たとえば、カフカさんの小説「変身」で、主人公が毒虫(さそり?)に変身するのに、周囲の人が「この毒虫はお兄ちゃんの青年グレーゴル・ザムザが変身した姿である」という妹グレーテの認識がなければ「お兄ちゃんがいなくなって、嫌な毒虫が現われた」ということになります。
 
 あるいはガラスのコップが壊れれば、コップは「変化・発展した」わけではなくて、たんに「コップでなくなった」、ガラスの破片になっただけです。
 コップが「ガラスの破片」に変化したと強弁できなくもないですが、すでにコップでないことには変わりありません。
 
 基本はこうだと思います。ものやものごとは、
 ① 変化せずに安定している場合
 ② 「そのもの」を保持しながら、変化・展開・発展していく場合
 ③ 「そのもの」や「そのものごと」の統一性を保持できなくて崩壊・分解する場合
 つまり「ものごとはすべて変化・発展する」というのは「安定期」を無視し、「崩壊・分解の可能性を軽視していて、正しくありません。

 ①と②との関係では「物あるいは物事」が安定して存在するためには、周囲の環境・条件も長期にわたって安定していないといけません。

 ですから、「変化・発展」の時期と、「固定・安定」の時期は「物あるいは物事」を構成する2つの両面で、「変化・発展」の方が本質的で大事だとか、「固定・安定」の方は表面的で軽視できる話と言うことは正しくありません。

 地球生命の進化でも、長期の安定的地質条件と、矛盾が爆発する短期間の危機とが混在しています。

 人類の歴史でも、たとえば300年にわたる江戸時代の長期の安定期は、戦国時代の転換期と、明治維新の転換期にはさまれています。」




雨宮日記 2020年3月3日(火) ひなまつり

2020年03月03日 22時46分15秒 | 雨宮日誌
雨宮日記 2020年3月3日(火) ひなまつり

 ひなまつりなので則子さんがに木製の夫婦ひなを飾る。

 父の97才の誕生日.100才を元気に超えて欲しい。

 久々の車椅子散歩に行く。まだオオバンはいる。

 梅がほとんど散っている。シジュウカラが2羽いる。

   ☆

 写真は友だちが豆子に持ってきてくれたチンゲンサイの花。菜の花みたいですね。


雨宮智彦哲学経済学メモリー 13 20200302 資本論の学習 3 商品の属性と要因、要素としての商品

2020年03月02日 20時15分29秒 | 過去現在のメモノート
雨宮智彦哲学経済学メモリー 13 20200302 資本論の学習 3 商品の属性と要因、要素としての商品


「資本論の学習 3 商品の属性と要因、要素としての商品
2010年02月18日 22時01分16秒 | 人間・生命・宇宙

 「第1章第1節 商品の2つの要因ー使用価値と価値」の第3回目です。

 まず哲学の学習で書いたことを繰り返しますが、本文は第1行目で「商品は、なによりもまず、その諸属性によってなんらかの種類の人間的欲求を満たす1つの物、1つの外的対象、である」としています。
 また「このような物はどれも、多くの属性からなる1つの全体であり、それゆえ、さまざまな面から有用でありうる。」
 
 この「属性」について、山本広太郎さんは『差異とマルクス ー疎外・物象化・物神性ー』(青木書店、1985年)で、以下のように述べています。

 「属性 Eigenschaft とは物 Ding の属性であり、物のうちで自立性を喪失し、観念化され、したがって「互いに分離して」いないものだからである。分離しておれば、属性ではなく、要因 Faktor (因数分解の因数はこれ)である。」(p173)

 商品の属性とは、たとえばコップが① ガラスでできている、② 透明である、とか、③ 上から見ると円形である、④ 横から見れば長方形である、⑤ 液体を入れておくことができる、などのことです。
 
 それに対して商品の要因の1つである「使用価値」とは「鉄、小麦、ダイヤモンドのような商品体そのものが、使用価値または財である」と述べているように「商品体」そのものを指しています。

 そして、商品が、価値と使用価値という2つの要因に分解できるからこそ、その独立した要因同士のからみあう運動によって、新たな「貨幣」という現象が生まれてくるのだと思います。
 『資本論』では、そのような、見た目には1つのプロセスが、それぞれの要因で、二重の意味をもって二重な結果をもたらすという「二重性」が大事だと思います。

 第1行目に戻りますが「資本主義的生産様式が支配する諸社会の富は、「商品の巨大な集まり」として現われ、個々の商品はその富の要素形態として現われる。それゆえ、われわれの研究は、商品の分析から始まる。」とあります。

 ですから、「個々の商品」「諸社会の富」「の要素形態(独 Elementarform)」であり、要素である「個々の商品」が、また、2つの要因(独 Faktren)に分かれるということです。

 この「要素」と「要因」はマルクスは使い分けていますが、同じものなのか、違うものなのか、私にはまだわかりません。学習していきたいと思います。」



雨宮智彦哲学経済学メモリー 12 20200301 資本論の学習 2 商品の「使用価値」とは何か 20100210

2020年03月01日 20時32分54秒 | 過去現在のメモノート

雨宮智彦哲学経済学メモリー 12 20200301 資本論の学習 2 商品の「使用価値」とは何か 20100210


「資本論の学習2 商品の「使用価値」とは何か
2010年02月10日 04時14分49秒 | 人間・生命・宇宙

 「第1編第1章第1節 商品の2つの要因ー使用価値と価値」の続きです。

 テーマは「商品の使用価値」とは何か、です。

 よくある誤解は「使用価値」とは、その語感から言っても、「使用することの価値」なのだから、その商品を使用するときの「効用」あるいは「満足感」とか、主観的なものではないかという誤解です。

 マルクスさんは、こう書いています。

 「ある物の有用性は、その物を使用価値にする。しかし、この有用性は空中に浮かんでいるのではない。この有用性は、商品体の諸属性によって制約されており、商品体なしには実存しない。それゆえ、鉄、小麦、ダイヤモンドなどのような商品体そのものが、使用価値ままたは財である。」(新日本新書版①p60ー61)

 つまり、ある商品の「使用価値」とは、固いその商品体そのもののことです。

 だからこそ、ある商品の使用価値は「見える」のです。」



新・本と映像の森 324 広津和郎『松川裁判(上・中・下)』中公文庫、昭和51年

2020年03月01日 10時29分41秒 | 本と映像の森

新・本と映像の森 324 広津和郎『松川裁判(上・中・下)』中公文庫、昭和51年

 上、317ページ。中、380ページ。下、327ページ。3巻で1024ページ。

 1949年(昭和24年)8月17日午前3時9分、福島県の東北本線福島駅ー松川駅間で福島駅を定時に発車した旅客列車412号が脱線し国鉄機関士2人が死亡した。

 作家広津和郎(ひろつかずお)さんは月刊雑誌『中央公論』に4年半、松川裁判第2
審判決を徹底批判した。

 いわば内在的批判であって、被告の実像とか、真犯人は誰とか言う議論はいっさいない。第2審判決だけを追っている。だからおもしろいのだと思う。

 大部の本だが、最近の推理小説よりもおもしろい。

 主な内容を紹介する。。

 自白のつくられかた。
 被告のアリバイ。
 謀議はあったのか。
 バールとスパナ。

 それから。
 
 「15 電話の問題」
 「16 謝礼金の問題」

 各章の目次でいうと。

 「2 「仮定」と「可能性」の裁判」
 「4 自白と事実の食違い」
 「9 証言を歪曲した判定」
 「13 詭弁と歪曲と捏造と」
 「30 網にかかった魚」

 三鷹事件、下山事件、松川事件、それから1950年の朝鮮戦争へ至たる歴史のみちのりについて考えたい。