明治後半から昭和の後半まで、
二度の世界大戦を含む激動、且つ、混乱期であった日本を
颯爽と生き抜いたダンディーでイカしたおっちゃん。
身長は185センチとも、182センチとも。
長身で足も長い。
スタイル良くてカッコイイ。
日本人で初めてジーンズを履いた男だとか、
イッセイミヤケのモデルもつとめただとか......
超お金持ちの名家に生まれ、
子供の時からスポーツ万能の荒くれ者だったとか。
そんな生家には、
迷惑をかけた人や家にいつでも謝りに行けるような
菓子折りが常備品となっていただとか。
若くして、当時貴重であった高級スポーツカーを親のお金で!?
乗り回し。
そのままイギリス、ケンブリッジ大学に留学し。
そこでも貴重な外車を友人達と乗り回し。
中退して日本に戻っても、
齢(よわい)80才になっても、
そのまんまの雰囲気でポルシェ911を乗り回していたとか。
でも、
敗戦に沈む混乱期の日本をリードして、
立て直しもしてきた気概ある官僚の一人でもあって。
今に至るまで平和憲法の象徴となっている
現日本国憲法の裏の立役者でもあり。
ジャーナリストの方々からは
「新憲法誕生の生証人」
とも称された人。
敗戦後の弱った日本を統治しに乗り込んできた
GHQ(アメリカと連合国の統合司令部)には、
日本の復興と自立、何より、譲れない自身のプライドと
プリンシプル(原理、原則、主義、信条)のために常に嚙みつき。
楯突き。
「従順ならざる唯一の日本人」
とも呼ばれた人。
あのマッカーサーにすら天皇への無礼を怒り、叱りつけた人。
それが白州次郎(しらすじろう)という人。
わたくしめ、とても好きな人なのでございます(^^)
日本が世界に対し敗戦や様々な賠償を受け入れる代わりに、
自国の主権維持だけはそのまま認めてもらえるように締結された、
イワユル
「サンフランシスコ平和条約」。
その調印式に際しても、
英語でのスピーチを用意していた吉田茂首相に対し、
日本語でスピーチするよう説得したのが次郎さん。
それは我が国のプライドだからだ、と。
同日、別の場所で交わされた、今でも議論の的となっている
「日米安保条約」
も、そんな次郎さんが一枚噛んでいます。
そのまま吉田内閣の参謀を長きにわたり務めあげ。
その後は東北電力の会長も務め。
日本の戦後復興の大事なカギであった
電力の安定化と強化にも努めます。
趣味のゴルフにおいても「軽井沢ゴルフ倶楽部」を運営し、
今日に至る日本のゴルフ文化の基礎を作り上げ。
冬はスキーに親しんで。
トヨタ自動車の社長には
「No substitute......かけがえのない車を作れ」
なんてオーダーをし。
「参考にこの車を持ってケーーッ!」
ってな感じで「ポルシェ911」を
トヨタの社長に気前よくあげちゃったりもして。
それで、
あの「トヨタソアラ」が完成したなんていう逸話までもあったり。
そして、そんなこんなの白洲次郎さんの集大成的な言葉というのが、
彼の有名な遺書に書かれていた言葉かもしれなくて......
もしかしたらコレこそが、
彼を表す最高の言葉なのかもしれなくて。
「葬式無用 戒名不用」
「そうしきむよう かいみょうふよう」
僕は、遺書として書かれた次郎さんのこの言葉を見て、
トドメ的に次郎さんのことが好きになったのでございます。
左にクールに座っているやたらとカッコイイ男性が白州次郎さん(^^)
そして、右にいらっしゃる、
高貴なオーラを醸し出している麗しき女性が
次郎さんの奥さまの白洲正子(しらすまさこ)さん。
彼女もまた、知る人ぞ知る!?御人でしょうか。
文筆家でありながら、
今もって稀代の目利(メキキ)とも云われる人。
ここでも以前「琵琶湖徒然」という記事で少し記していましたが、
彼女もまた、僕の敬愛する方であります。
次郎さんのあまりにも絢爛溌剌としたキャリアと、
正子さんの才気ほとばしる生き方には
多くの人が憧れるものがあるとも思いますし、
どこか特別なものがあるようにも思えます。
でも、僕は何より、こんな二人の写真を見るだけで、
二人が人間的にもとても魅力的な方々であったであろうことを
思ってしまうのです。
実は、最近。
長い間密かに抱いていた僕の小ささな夢が叶いました。
それが、
この大好きなお二人のお墓参りをすることでした。
簡単に出来そうで、
なかなか実現出来なかったことだったのですが、
それが、タイミングが合い、やっと実現できました(^^)
「お墓は不要!」
などと言っていた次郎さんのお墓がなぜあるのか?というと、
それは、次郎さんが亡くなった時に、
やはり、あまりに多くの人々から
「次郎さんを偲ぶ場所を作って欲しい、、」
という話が妻の正子さんの元に届いたようで。
それで正子さんが
「ならば、、」
と創ったお墓らしいのです。
正子さんはソレを作る時、生前の次郎さんのことを考え。
遺書の言葉も考え。
更には、いずれこの地に一緒に眠るであろう自分のことまでも考え。
その結果、お墓ではなく、彼や自分との
「良き語らいの場」
としてのお墓をデザインしたのだそうです。
なので、墓碑としている石の形も
不動明王の五輪塔を人の姿の様にアレンジしたもので。
その人ガタを思わせる石碑の向かいには、なんと!
ソコに来てくれた人に
「まぁ、ゆっくりして行ってくださいな。。
なにか飲みます?(^^)」
なんていう声が聞こえてきそうなベンチ!
が置いてあるというのです。
もう、センス溢れる正子さんの施したデザインの話だけでも、
僕的にはヒットのしまくりで......
なんだかわかりませんが......
胸も強く打たれてしまうのです......
それで、僕が長年抱いていた小さな夢の一つが、
そんなお二人の、そんな墓所の、
そんなベンチに座ってビールを一杯!
酌み交わしながら語らってみちゃう......
ということだったりしたのです。
今は正子さんも仲良く並んでいらっしゃるであろう、そのお墓は、
兵庫県、有馬温泉をさらに奥へと進んでいった三田市の
「心月院」というお寺にありました。
こじんまりとして、とても良いお寺でした。
行ってみると、噂通り、
それはもう、お墓とは思えない様な形で。
さすが正子さん。
さりげなく、花壇みたいな感じ。
ベンチは向い側と、
石碑に向かって左側にも、
もう一つ置いてありました。
ワイワイと石碑を囲んで賑やかに語らうことが出来る感じ(^^)
僕は、早速、ビールを注いで......
「カンパァァアァァァァーーーイ!!(´▽`)」
全くもって最高でございました。
小さな夢が一つ叶った瞬間なのでございます(⌒o⌒)v♪
この地を訪れて、改めてよくわかったのですが、
僕はやっぱり、
このお二人のことがとても好きなのでございます。
ええ。ええ。
二度の世界大戦を含む激動、且つ、混乱期であった日本を
颯爽と生き抜いたダンディーでイカしたおっちゃん。
身長は185センチとも、182センチとも。
長身で足も長い。
スタイル良くてカッコイイ。
日本人で初めてジーンズを履いた男だとか、
イッセイミヤケのモデルもつとめただとか......
超お金持ちの名家に生まれ、
子供の時からスポーツ万能の荒くれ者だったとか。
そんな生家には、
迷惑をかけた人や家にいつでも謝りに行けるような
菓子折りが常備品となっていただとか。
若くして、当時貴重であった高級スポーツカーを親のお金で!?
乗り回し。
そのままイギリス、ケンブリッジ大学に留学し。
そこでも貴重な外車を友人達と乗り回し。
中退して日本に戻っても、
齢(よわい)80才になっても、
そのまんまの雰囲気でポルシェ911を乗り回していたとか。
でも、
敗戦に沈む混乱期の日本をリードして、
立て直しもしてきた気概ある官僚の一人でもあって。
今に至るまで平和憲法の象徴となっている
現日本国憲法の裏の立役者でもあり。
ジャーナリストの方々からは
「新憲法誕生の生証人」
とも称された人。
敗戦後の弱った日本を統治しに乗り込んできた
GHQ(アメリカと連合国の統合司令部)には、
日本の復興と自立、何より、譲れない自身のプライドと
プリンシプル(原理、原則、主義、信条)のために常に嚙みつき。
楯突き。
「従順ならざる唯一の日本人」
とも呼ばれた人。
あのマッカーサーにすら天皇への無礼を怒り、叱りつけた人。
それが白州次郎(しらすじろう)という人。
わたくしめ、とても好きな人なのでございます(^^)
日本が世界に対し敗戦や様々な賠償を受け入れる代わりに、
自国の主権維持だけはそのまま認めてもらえるように締結された、
イワユル
「サンフランシスコ平和条約」。
その調印式に際しても、
英語でのスピーチを用意していた吉田茂首相に対し、
日本語でスピーチするよう説得したのが次郎さん。
それは我が国のプライドだからだ、と。
同日、別の場所で交わされた、今でも議論の的となっている
「日米安保条約」
も、そんな次郎さんが一枚噛んでいます。
そのまま吉田内閣の参謀を長きにわたり務めあげ。
その後は東北電力の会長も務め。
日本の戦後復興の大事なカギであった
電力の安定化と強化にも努めます。
趣味のゴルフにおいても「軽井沢ゴルフ倶楽部」を運営し、
今日に至る日本のゴルフ文化の基礎を作り上げ。
冬はスキーに親しんで。
トヨタ自動車の社長には
「No substitute......かけがえのない車を作れ」
なんてオーダーをし。
「参考にこの車を持ってケーーッ!」
ってな感じで「ポルシェ911」を
トヨタの社長に気前よくあげちゃったりもして。
それで、
あの「トヨタソアラ」が完成したなんていう逸話までもあったり。
そして、そんなこんなの白洲次郎さんの集大成的な言葉というのが、
彼の有名な遺書に書かれていた言葉かもしれなくて......
もしかしたらコレこそが、
彼を表す最高の言葉なのかもしれなくて。
「葬式無用 戒名不用」
「そうしきむよう かいみょうふよう」
僕は、遺書として書かれた次郎さんのこの言葉を見て、
トドメ的に次郎さんのことが好きになったのでございます。
左にクールに座っているやたらとカッコイイ男性が白州次郎さん(^^)
そして、右にいらっしゃる、
高貴なオーラを醸し出している麗しき女性が
次郎さんの奥さまの白洲正子(しらすまさこ)さん。
彼女もまた、知る人ぞ知る!?御人でしょうか。
文筆家でありながら、
今もって稀代の目利(メキキ)とも云われる人。
ここでも以前「琵琶湖徒然」という記事で少し記していましたが、
彼女もまた、僕の敬愛する方であります。
次郎さんのあまりにも絢爛溌剌としたキャリアと、
正子さんの才気ほとばしる生き方には
多くの人が憧れるものがあるとも思いますし、
どこか特別なものがあるようにも思えます。
でも、僕は何より、こんな二人の写真を見るだけで、
二人が人間的にもとても魅力的な方々であったであろうことを
思ってしまうのです。
実は、最近。
長い間密かに抱いていた僕の小ささな夢が叶いました。
それが、
この大好きなお二人のお墓参りをすることでした。
簡単に出来そうで、
なかなか実現出来なかったことだったのですが、
それが、タイミングが合い、やっと実現できました(^^)
「お墓は不要!」
などと言っていた次郎さんのお墓がなぜあるのか?というと、
それは、次郎さんが亡くなった時に、
やはり、あまりに多くの人々から
「次郎さんを偲ぶ場所を作って欲しい、、」
という話が妻の正子さんの元に届いたようで。
それで正子さんが
「ならば、、」
と創ったお墓らしいのです。
正子さんはソレを作る時、生前の次郎さんのことを考え。
遺書の言葉も考え。
更には、いずれこの地に一緒に眠るであろう自分のことまでも考え。
その結果、お墓ではなく、彼や自分との
「良き語らいの場」
としてのお墓をデザインしたのだそうです。
なので、墓碑としている石の形も
不動明王の五輪塔を人の姿の様にアレンジしたもので。
その人ガタを思わせる石碑の向かいには、なんと!
ソコに来てくれた人に
「まぁ、ゆっくりして行ってくださいな。。
なにか飲みます?(^^)」
なんていう声が聞こえてきそうなベンチ!
が置いてあるというのです。
もう、センス溢れる正子さんの施したデザインの話だけでも、
僕的にはヒットのしまくりで......
なんだかわかりませんが......
胸も強く打たれてしまうのです......
それで、僕が長年抱いていた小さな夢の一つが、
そんなお二人の、そんな墓所の、
そんなベンチに座ってビールを一杯!
酌み交わしながら語らってみちゃう......
ということだったりしたのです。
今は正子さんも仲良く並んでいらっしゃるであろう、そのお墓は、
兵庫県、有馬温泉をさらに奥へと進んでいった三田市の
「心月院」というお寺にありました。
こじんまりとして、とても良いお寺でした。
行ってみると、噂通り、
それはもう、お墓とは思えない様な形で。
さすが正子さん。
さりげなく、花壇みたいな感じ。
ベンチは向い側と、
石碑に向かって左側にも、
もう一つ置いてありました。
ワイワイと石碑を囲んで賑やかに語らうことが出来る感じ(^^)
僕は、早速、ビールを注いで......
「カンパァァアァァァァーーーイ!!(´▽`)」
全くもって最高でございました。
小さな夢が一つ叶った瞬間なのでございます(⌒o⌒)v♪
この地を訪れて、改めてよくわかったのですが、
僕はやっぱり、
このお二人のことがとても好きなのでございます。
ええ。ええ。
牛さんで有名ですが、また新たに素晴らしい場所を知りました。ありがとうございます。
そんな素晴らしい事も知らず、日々暮らしていた元さんだ市民でした。。。
でも、ゆったりとした牧草地と農地の広がる山間の豊かな地という印象が、大きなマンションや住宅地が連なる近代的ベッドタウンという風景になっていることに今回かなり驚きました。
「パンプキン」という街のパン屋さんがとても好きなのです(^^)b 今回も寄りました!