雲は完璧な姿だと思う。。

いつの日か、愛する誰かが「アイツはこんな事考えて生きていたのか、、」と見つけてもらえたら。そんな思いで書き記してます。

「創世記」11章 1-9節

2016-05-15 23:55:37 | セツナイ
高いところから見る景色というのは、
人の中にある幾つかの気持ちをよく満たすことが出来るのでしょうか。
毎日毎日、東京の真ん中に聳え立つビルの高層階で働いていると、
そんな人の中......自分の中......にあるエゴにも似た気持ちのことを、
なんとなく考えてしまったりすることがあります。
景色の良いタワーマンションの高層階などで暮らしているとしても、
これと似たような感覚などが湧いて来たりもするものなのでしょうか......

ソコはちょっとわかりませんが。

もしかしたら、
高い山から見渡す風景にも、
そんな山の登頂に成功した人の気持ちの中にも、
己の中に棲む「何か」を満たしてくれる様なモノが、
同じように含まれていたりもするのでしょうか。
時々、そんなことを考えてしまう時があります。



最近、また一つ、
僕の働くビルの目の前に大きくて高いビルが建ちました。



そのビルは、
数ヶ月前迄は、
まだ遥か下の方で地面に穴を掘るような作業をしていたモノでしたが。
あれよあれよという間に僕らの働くビルよりも高く伸び、
僕の席から見えていた景色もドンドンと変えていきました。

少し前までフロアから遠くに綺麗に見えていた富士山は、
いつの間にか、
目前の新しいビルの外壁である薄いグリーンの窓ガラスへと変わり。
富士山の姿は、もはや、
僕らのいるビルからは全体でも限られた場所からしか
見ることが出来なくなってしまいました。

ただし、
目の前のガラス張りの新しいビルからはとても良く見えると思います。

そして、ふと、
そんな東京の街を改めて見渡してみると。
他にもアチコチに建設中の大きなビルやマンションが見て取れます。

きっと、今僕が見ている景色も、
またすぐに変わっていってしまうのでしょう。
これまでも、
こんなことはあちこちでずっと繰返されてきましたし。
富士山が見えない「富士見坂」なんて、
いくつあるのでしょうか。

そして、

見えなくなっているのは、

景色だけなのでしょうか。

ちょっと不安になる時があります。

都市特有の「キツイ」アレコレの原因には、
建物の高層化や多層化ということも
一部強く関係しているのではないかと思われます。
例えば、その土地が本来収容できる人の数を超えてしまったり。
その土地が本来養える人の数を超えてしまったり。
そんなことが、
時々恐ろしくも思える東京の満員電車の状況を
生んでいるのだとも思います。

人同士の必要以上の摩擦や、
家賃や地価の上昇やバラツキを育んでいるかもしれません。
生活に必要な水も、
湧水や綺麗な井戸水ではまかないきれなくなって、
塩素を大量に使った水道水に変化しているのかもしれません。

人々から「空=ソラ」を奪っている可能性も。
夜空の星を見えなくしている可能性も。
どこか遠くの地の自然を削らせている可能性も
「何かのバランス」を狂わすことになっている可能性も。

さらには、見渡す限り高層建築や
近代的な家々が隙間なく続いていく東京の地に立てば、
時に方向感覚や土地の高低すらもわからなくなることもあります。
そこがどんな地形の場所なのか?よくわからなくなったりします。
正確には、

「そこがどんな地形なのか、意識もしない環境になっている」

ということだとも思いますが、
そんな都市の中では自分が今いる場所が昔は川だったことも、
池だったことも、
海だったことも、
道の下にはコンクリートで覆われた
暗い川が流れているというようなことも、
そんなこともわからなくなることがあります。
公園と思っていた場所が実は巨大な古墳だったり。
小さな墳墓だったり。
色々なことが見えなくなっているようにも思います。
それでも、そんな都市化や高層化が止まらないのは、
そんな諸事を遥かに凌駕するメリットや合理性、もしくは、
「人心を満たす何か」
があるからなのだとも......感じられます。



「バベルの塔」



最近、僕の頭を巡る、
世界中でよく知られた旧約聖書の一節。



「創世記」11章1-9節。
1. 全ての世界で、同じ言葉と同じ言語を用いていた。
2. 東の方から移動してきた人々は、
  シンアルの地の平原を見つけ、そこに住み着いた。
3. 彼らは「さあ、煉瓦を作ろう。それをよく火で焼こう」と話し合った。
  彼らは石の代わりに煉瓦を、漆喰の代わりにアスファルトを用いた。
4. そして、彼らは言った。
  「さあ、天に届くほどの塔と街を作ろう。
  あらゆる地に散らされても、
  消え去ることのないように、我々は有名になろう」
5. 主は、人の子らが作ろうとしていたこの街と塔を見ようと降りてきた。
6. そして仰せられた。
  「なるほど、彼らは一つの民で、
  同じ言葉を話しているからこのようなことをし始めたのだ。
  おそらく彼らはこのこともやり遂げられないこともないだろう。
7. ならば、我々は降りて行って、彼らの言葉を混乱させ、
  互いに相手の言葉を理解できなくなるようにしよう」
8. 主はそこから彼らを世界に散らされたので、
  彼らはその街を作るのをやめた。
9. そんなわけで、この街はバベルと名付けられた。
  主がそこで全地の言葉を混乱させ(バラル)、
  そこから彼らを全地に散らされたからである。



聖書は、その原典とされるものはこの世界にありません。
代わりに幾つかの古い言語で記された「写本」を原典としています。
なので、同じ章や節でも、様々な言語への翻訳過程で
本毎に言葉やニュアンスの違いなどが生まれていたりもしますが、
「バベルの塔」に関しては「総じて」上のような物語となります。
そんな中、一般に最も広まっているこの寓話の「意」としては、

「人類が天にも聳える塔を作ったり、
高度なテクノロジーで天上の神に挑戦しようとしたので、
神は怒り、その塔を崩した」

というものであって。
多くの場合、人が神になろうとする様な傲慢さを持つことに対し、
戒めるような時に使われる寓話となっていたりします。
興味深いのは、上に記した様な原典訳を見ると、
神が人を懲らしめる......という様なことは決して書かれてもいませんし、
ましてや「神が街や塔を破壊した」などとは書かれていません。
なので、僕的には、この物語に関しては本来、シンプルに
「世界に沢山の言葉が存在している聖書的理由」
として読むだけで良い様な気がしていますが......

それにしても......

この章を読む限り......

神様ってヒドクね!?(;゜○゜)。。と。

モチロン、旧約と新約で神様のキャラクターもだいぶ違いますが、
この物語は世界中で多くの人の心にスルリと入り込んでしまうぐらい
不思議な力を持った話となっているようです。
そして、最近、
この聖書の寓話が僕の頭をやたらグルグルと巡るのです。



今公開中の映画
「レヴェナント: 蘇えりし者(The Revenant)」
鬼才
「アレハンドロ・ゴンサレス・イニャリトゥ
(Alejandro González Iñárritu)」
監督の最新作。
坂本龍一さんが久しぶりに音楽を手掛けた作品ということで、
少し前に、教授のマネージャーさんから映画の試写会を兼ねた、
教授のトーク&ライブに招待して頂きました(^_^)

しかし......

以前も記しましたが、イニャリトゥ監督の作品は毎度毎度、
個人的には驚かされる部分がありまして。
今回も.......今作は!?

......エグイ、エグイ、で。

流石でございます。

ええ。流石という言葉しか見当たりません。
みんなにオススメ!!とは決していかないような感じで。ええ。
心臓の強い人には良い作品かもしれませんが。今回は。
でも、この作品でこの監督が言わんとしているコト、
描かんとしているコトというのは、やはり今作も、
僕個人としてはグウの音も出ないくらい
とても大切なことなのではないか......
と思わさたりもします。
それは人間という存在を考える上で、
語る上で、
とても大切なコトなのではないかと。
そんなことも思うのです。
僕は彼の作品はこれまでも全て見ているのですが、
それら全ての作品を貫くコトが、いつもそんな

「生きるってなんなんだ?
人間てなんなんだ!?
神ってなんなんだ!?」

というようなコトにも思えています。
中でも僕の一番のお気に入りが、
アカデミー賞も獲得した「BABEL=バベル」
モチーフは聖書の「バベルの塔」から起こされたもので、
彼特有の切なく、厳しい響きでもって迫ってくる作品。
人種、性別、言語、国、文化、職業、立場、環境......
様々な「違い」によって生まれる
ミス・コミュニケーションが生む出来事、悲惨さ、切なさ......
時に素晴らしさ......までもを描いた作品。

人と人、

人と神との間にあるコミュニケーション。

2つの間(アイダ)。

真ん中を見定めるには......

右端と左端をわかっていないと出来ないのでしょうか。

正しさは、間違いが導き、証明してくれるような気もします。

自然と文明。

野生と理性の間。

身につけた合理性と、失った野生のカン。

本能。

バランス。

失った満天の星空と、手に入れた星空のごとき街の明かり。

進化とは、本当は全てを進化させることでは無いのかもしれない。

何を進化させ、何をそのままにしておくのか。

右端に行って、左端に行って。

山の頂(いただき)に登り、海の底に潜り。

無駄を極め、合理化を極めて。

そうでなければ、

ド真ん中の正解などには、

進化や文化の真の正解などには、

辿り着けないのかもしれない......

創世記の「バベルの塔」が、最近やたらと頭を巡るのです。


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