AN現代針灸治療

ANとは「にただあつし(似田敦)」のイニシャルです。現代医学的知見に基づいた私流の針灸治療の方法を解説しています。

古代中国人の考えた消化管構造 とくに脾・腎・膀胱について

2010-07-09 | 古典概念の現代的解釈

1.古代中国人の医学的認識は、人間は自然の一部であり、自然も人間の一部であるというである。端的にいえば、人体の中に自然を見いだし、自然現象を観察することで、人体内部の仕組みを追求したといえる。しかし現代において、古典を研究する者は、古代中国医師の自然観察姿勢を忘れ、古典を六法全書のように考え、裁判官のような態度で疾病に対処しようとしている。
 古典(中医学を含む)を勉強して常々思うのは、法律の羅列であって、これを事実として認識せよ、とする著者の態度であり、これでは宗教のやり方と変わらない。古代医師のもっていた筈の、自然を観察する姿勢はどこに行ったのだろうか。

2.私に新たな目を開かせたのは、平成16年3月号と平成16年6月号の「宗気考」と題して「医道の日本」に載った松本岐子先生の記事であった。松本先生は、人体の生命現象を蒸籠(せいろ)にたとえた。体幹部は大きな蒸籠であり、頭蓋は鼎(かなえ)だという。私は、これに触発され、古典を読み返して、古代中国医師が考えた人体モデルを考えてみた。
 ※ 鼎については、「中国医学における頭痛の認識」(仮題)の項で将来説明する予定でいる。

3.これまでの消化器系の認識を以下に図示した。脾の役割が不明瞭であること、胃・小腸から膀胱に流れる汚水の経路も不明瞭であることが読み取れる。この程度が古代中国医師の認識なのだろうか? 筆者は古典を読み直して本図を改変してみた。この新しい図は、多くの内容を含んでいて、中医理論を明快にいくつか説明できるものである。数回に分けて徐々に説明したい。今回は、脾・腎・膀胱の機能について説明する。




4.脾の機能
  もし脾がなかったらと仮定する。口から水を飲めば、単に消化管を下り、大腸を経て肛門から水が出るだけである(膀胱から小便が出るのではない)。これでは人間は生きていけない。胃や小腸に行った水は、脾の力で、体幹の蒸し器に投入される。蒸し器の底には水がたまっており、蒸されることで水は徐々に失われるので、この水を補充するという意味がある。
 水以外の水溶性栄養分も水と同じ経路をたどるので、蒸し器に溜まっている水は、単なる水ではなく栄養液というべきである。食物中の脂溶性栄養成分は、蒸されることで血液に変化する。血が濃縮して集まってできたのが脳や骨髓である。余剰の血液は脂肪に変化し、蓄えられる。

5.腎の機能
 蒸し器の底にある水を、腎水とよぶ。腎水には、生命の元である精が溶け込んでいる。房事過多などで精液を出し過ぎれば、腎水中の精が少なくなる。精子は新しい生命を誕生させる物質だが、その精が減れば、自分自身の生命も維持できなくなってくる。腎水中にあるのは、水+水溶性栄養成分+精である。
なお腎陰・腎陽という言葉がある。新しい解釈によれば、水は陰なので、腎陰とは腎水そのものをさし、腎陽とは加熱された腎水をさす。
腎水は、火によって温められ、水蒸気を出し、それを人体各所に行き渡らせることで生命現象を営むことが可能になる。腎水がなくなれば、水蒸気が上らなくなるので生命を維持できなくなる。
腎水を温める火のある場所を丹田という。丹田にある火は、命門の火とよばれる。生命の炎というべきで、これが消えることも死を意味する。この火の正体は、筆者は小腸だと理解している。その理由は筆者の過去ブログ「手所属の経絡と足所属の経絡-古代中国の内臓観」で記してある。

6.膀胱の機能
 腎水は、火によって加熱されて水蒸気(=原気とよぶ)になり、身体各所のエネルギー源として利用されるが、残りは蒸し器の上部で冷やされて水滴となり、腎水中に戻ってくる。腎水の減少分は、脾によって補給されるものの、繰り返し使用されるので次第に濁ってくる。あるいは脾の補水機能が異常亢進すれば、水は余剰になるであろう。このような不要な水は排泄されるべきであり、その排水タンクに相当するのが膀胱である。



7.血と精の循環
 上図では、脾で生成された血の行方が描かれていないので、その循環図を示す。腎において、精と血は必要に応じて変換されるので、精の循環についても併せて示す。

 精には、先天の精と後天の精の区別がある。先天の精は、生命の素となる物質で、両親から受け継いだ「生殖の精」で、生殖や発育を担当する。いわば生命の炎であり、腎に大切に貯蔵されている。この炎の消滅は、死を意味する。後天の精とは、飲食物の脂肪以外の物質を原料として脾で合成された気血の元となる物質で、先天の精の炎を絶やさぬように栄養を補給する役割と、肉体を活性化する役割がある。もし長期間、飲食物を口にしなかった場合、後天の精は先天の精を養えず、生命の炎が消えてしまうことになる。「精力のつく食べ物という時の精」である。


 血の循環は、現代医学とほぼ同じで、血管内を巡る。心はポンプとして、肝は貯蔵場所として機能している。後天の精は、脾で合成され、血管外を一巡する。後天の精は、必要に応じて腎において、血を精に、あるいは精を血(血が不足した場合、まずは肝に貯蔵した血を放出するが、それでも不足した場合には、腎で精から血を合成する)に物質変換する機能がある。これを腎の気化作用とよぶ。なお気化作用とは、一見すると、物質を気体化する作用に思いがちだが、気の運動変化を略した単語であって、気による物質変換や物質生成作用のことである。





8.三焦とは
  通常、蒸し器は、三段に分かれている。下段は水を入れ蒸気を発生させるところ、中段は蒸すための食物を入れるところ、上段は蒸気が冷やされて水に変わるところである。仮に上段がない蒸し器があったら、その食物はベチャベチャに濡れた状態になるであろう。(最近では、鍋にしても、タジン鍋というのが流行している)
 この蒸し器は、火で加熱するものなので、当然熱くなるわけだが、人体における蒸し器本体を三焦とよぶのだと想像する。上焦・中焦・下焦の主機能も、蒸し器と同様である。  


古代中国医師は気血水を、どう考えていたか

2006-05-04 | 古典概念の現代的解釈
 鍼灸古典を読んで常々思うことは、「これはこうだ、こうなっている」という記述に終始し、なぜそうなのかという疑問の手がかりがない、ということである。
気血水にしても同じである。一応古典派の間の共通認識を簡便に記すと、つぎのようになる。
 血:現在でいう血液と同一
 水:津液ともよぶ。血液以外の生理的体液
 気:気と水を動かすエネルギー

 では古代中国医師は、なぜそう考えたのだろうか。以下に私の個人的見解を述べる。血液を器に入れて放置(血沈検査と同じ)すると、上下二層に分かれる。現代では上層の淡黄色の液体は血漿成分、下層の暗赤色の液体は血球成分であることが知れているが、中国人は上層のは水、下層のは血だと考えた。
(また出血した血を放置すると、ペースト状に固まることを知り、瘀血のイメージを得た)

 二層に分かれたのは放置していたからであり、血液が動いていれば二層に分かれることはない。生体内では血液が循環しているから二層に分かれることはなく、血液を動かしている力を考え、気という概念を完成させたのだろう。その結論の正しさはともかくとして、観察による事実から論理的に考察していたと思われる。

 
気・血・水を、どう考えるべきかは、稿を改め、考察していきたい。
 

価値の少ない六部定位脈診法

2006-04-16 | 古典概念の現代的解釈
脈診法には、六部定位脈診、脈状診、人迎脈診の3つがある。うち人迎脈診は、小椋道益氏の死去にともない、現在事実上消滅してしまった。脈状診は、私個人では、有用な診察手段だと思っているが、その結果を鍼灸治療に直接結びつけることに困難を感じている。問題なのは、六部定位脈診である。
※2010年9月27日、人迎脈医会理事の飯田孝道先生から人迎脈診は消滅していないとのメールを頂戴した。失礼しました。(2010年9月29日)

40年ほど前、東京教育大学(現、筑波大)の森和先生の行った実験がある。それは3人の六部定位脈診の名人が、20名ほどの被験者の腕を脈診した(スリットから腕だけを出し、他部位はカーテンなどで隠した)が、3人の名人鍼灸師の回答はバラバラであって、一致するのは数例ほどだったという。この実験から推察されるように、六部定位脈診は、当人が無意識的にしても、他の望聞問診の情報を取り入れていれて判断しているか、もともと六部定位脈診で診断できない、といえそうである。

そもそも六部定位で寸関尺の部に臓腑を配当していることに無理がある。配当する臓腑は時代とともに変化してきた。
 
 脈状に関する手技や解釈は定説がない。東洋医学関係者間でのコンセンサスもとれていない。恩師の代田文彦先生は、わざわざ脈をみなくても病態(虚実、表裏、寒熱)の推測はできる。換言すれば脈から分かるのは、これくらいだろうと述べいる。沢田健先生も代田文誌先生も、脈診をしなかったと聞く。

※脈状診についてのブログは、「古典概念の現代医学的解釈」カテゴリー中の、「主要な脈状診の解釈」ブログにあります。
 
 

手所属経絡と足所属経絡の意味--古代中国の内臓観

2006-04-15 | 古典概念の現代的解釈
 12正経は、手所属のもの肺・大腸・心・小腸・心包・三焦の6種類あり、足所属のものが胃・脾・膀胱・腎・肝・胆の6種類である。では手とか足とかの所属分類の必然性は、どのようにして決まったのだろうか。私はこれまで納得のいく説明を聞いたことがない。以下は私の見解だが、想像を逞しくしているので、話半分の気持ちで、おつき合い願いたい。

 NHKブックスで、高橋晄正著「漢方の認識」の中に、上に示した図が載っている。古代中国医師の内臓観を示すもので、ボディーにしっかりと描かれているのは手所属の内臓だけである。足所属はヘリに付着している程度の存在である。手所属の臓腑は、上下に分かれた相似形に分けられ、上半分は陰の臓腑が、下半分は陽の臓腑が配置されている。いかにも中国人の整体観を反映している見事なものである。

 上の中心にあるのは心で心包がこれを調節し、下の中心にあるのは小腸で三焦がこれを調節している。つまり心機能は心拍動という点は現代医学と同じだが、小腸機能は腹大動脈の拍動を診ていたと推定できる。
 
  さらに五行論に目を向ければ、心と心包、そして小腸と三焦はどれも「火」に属するので、体温生成に関係していることも知れる。肺と大腸は「金」なので、胸と腹において、金を火であぶっている状況を想像できる。想像を逞しくすれば、金属を火であぶりながら、その精華である金(ゴールド)を精製しているという錬金術の世界を垣間見ることもできよう。

 手所属の臓腑が錬金術工場だとしても、工場設備だけあっても役立たない。この工場を順調に稼働させるには、まず原料を運び込まねばならない。原料を工場に納入することが脾胃の作用である。また工場であれば産業廃棄物が出るので、その処理をしなくてはならない。これが腎膀胱の作用である。また工場を稼働させる目的は、当然生産品を生み出すことにあるが、この生産品が、肝胆の作用となるかと思われる。