夕暮れのフクロウ

―――すべての理論は灰色で、生命は緑なす樹。ヘーゲル概念論の研究のために―――(赤尾秀一の研究ブログ)

明けましておめでとうございます

2008年01月02日 | 日記・紀行

明けましておめでとうございます

2008年、平成二十年の幕開けです。今年もまた希望に満ちた明るい充実した一年になりますように。今年は子年だそうです。平安時代には、正月の初子の日には、野山に出て小松を引いたり若菜を摘んだりして楽しむ習慣があったそうです。春の七草もまもなくです。七草粥など味わえればと願っています。そういえば、昨年の秋の七草には、撫子と女郎花には出会えませんでしたが。ところで「子子子子子子子子子子子子」。さて何と読むでしょう。小野の篁さんに聞いてください。

    

            初音

昨年も私なりにメッセージを送り続けました。もちろん笛は吹けども踊らずであるのはヨハネやイエスの時代以前からのことです。エチオピア人がその黒い肌を、豹が斑の皮を変えられないように、人間もその本性は変わりません。だから何も驚くには当たりません。それでも、世界や現実は、自称平和主義者や理想主義者が考えるはるか以上に、理性的なものです。然るべくしてそうなっています。そして、世界史の歩みはゆったりとしたものですが、その目的は貫徹されます。

その社会にどんなに科学技術の知識や物質の富に豊かになっても、精神の根幹が腐っていれば没落は免れません。それは世界と日本の社会の現実が示している通りです。そして日本の復活の鍵がどこにあるのか誰もがわかっているのに、まだそれを実行できません。

個々人の小さな思惑をはるかに越えて、世界史は進んで行きます。昨年の世界の基本的な変化は、ロシア、中国、インドが目覚ましい経済的発展を成し遂げ、それに応じてアラブ産油国がオイル高騰景気に沸いた一年だったことでしょう。またアメリカ国民の奢れる消費生活がサブプライム問題として神に裁かれようとしています。昨年末にはパキスタンではブット前首相が民主主義のために殉じました。日本国民も現在の民主主義が有名無名の多くの人の血と汗によって勝ち取られたものであることをいつも思い出す必要があるでしょう。

小沢一郎民主党党首はいつまでも国連信仰の夢から覚めることはなく、福田康夫氏には国民を幸福にするほどに政治理念に力量はありません。学力低下は何も日本の中学生、高校生や政治家たちだけの話ではありません。とくに日本の指導者を指導すべき大学および大学院の学力と志の劣化が日本社会の危機の背景にあります。今日の大学の人材の枯渇とその品格の衰えを見るべきだと思います。そこには戦後世代の精神を自明のものとして、それを越えた時代と人格を思考するだけの想像力はありません。

政治の世界でも、自由と民主の理念に従って政界を民主党と自由党とに再編成するのではなく、小沢氏と福田氏は、愚かにも政治家の談合と切磋琢磨なき癒着によって、日本国を茹で蛙のような安楽死への道に開こうとしました。日本の談合文化がすべて悪いとは言いませんが、その悪しき一面の現れたのは事実です。

ところで私にとって青春の日々に、伝道の書や箴言などが聖書への入門書となりました。これからも聖書と共に生き、そこから慰めと歓びを得て、そして、さらに聖書が日本国民の書となり、いっそう品格に富んだ国家と国民になりますように。このブログがそれにいささかでも寄与することができればさいわいです。

伝道の書第三章、第七章から

善き日々は歓び楽しめ、悪しき日には深く考えよ。神は両者を併せて造られた。人には誰も行く末のことはわからない。

人の子の苦痛に満ちた労役がいったいなんの益があるというのか。
彼に課せられた骨折りを私は見てきた。神はすべてを時にかなって美しく造り、彼らの心に永遠の思いを与えられた。それでも人は誰も神のなさる業を初めから終りまで見届けることはできない。・・

私は知っている。神のなさることは永遠に続くことを、それには何も足すことも引くこともできないことを。ただ人は神のみを畏れよ。

幸福と真実の民主主義は小さな少数者のグループにおいて、しかしそれも、ただ比較的に相対的に実現されるだけのものかもしれません。絶対的な理想は、ただ天上にある神の国においてのみ実現されるもので、しょせんこの地上では実現されることはないのでしょう。ですから、私たちはせめて片手に持てるものだけでも十分に歓び満足すべきものだと思います。

私にも、皆さまにとっても、本年もさらにいっそう充実した時間の
訪れますように。そしてブログでの議論も活発な充実したものとして、ともに民主主義の文化を研鑽してゆきましょう。

 

コメント
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