夕暮れのフクロウ

―――すべての理論は灰色で、生命は緑なす樹。ヘーゲル概念論の研究のために―――(赤尾秀一の研究ブログ)

「神の国」とヘーゲルの「概念」

2008年01月29日 | 概念論

「神の国」とヘーゲルの「概念」

キリスト教神学でも、とくに根本的に重要な概念である「神の国」については、その核心的な根拠として、先の記事でもマタイ書第六章とルカ書第十一章から二個所を取り上げた。それは「主の祈り」としてその伝統の中にも要約され織り込まれている。

それを、あらためてヘーゲルの概念論を研究するこのブログおいて取り上げたのも、このキリスト教の中心的な概念がヘーゲルの概念論の核心と無関係ではないからである。

ヘーゲルの概念論については、かって青年マルクスも『経済哲学手稿』のなかに論及したことがあったが、しかし、以前にもそのことに触れたように(『薔薇の名前』と普遍論争 )、そこでの理解はきわめて浅薄なものであった。講壇哲学者であれ在野の哲学者であれ、それを的確に把握しているものは少ないように思われる。そのことは、これまでヘーゲルの「概念」と「神の国」との関連を論じた者がわが国において誰もいなかったことからもわかる。

ヘーゲル哲学の根本的な動機がキリスト教の真理を科学的に把握することにあったように、キリスト教の絶対的な理念である「神の国」は概念でもあるのであって、それは絶対的な原因であると同時に目的でもある。宗教的な天才であるイエスはそれを明確に自覚していた。イエスが「神の御心が天において行われますように」といったのは、「神の国」が「概念」であるということでもあり、「地上においても行われますように」と祈ったのは、哲学的にいえばそれが理念でもあるからである。

比喩的にいえば、概念とは「観念的」な種子でもある。「神の国」もまたそうである。哲学においてはそれを絶対的な理念として捉えなおす。だから、全宇宙はこの一つの種から無限に咲き出でる花に他ならない。
「概念論」をめぐる論議がさらに深まることを期待したいと思う。

 

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