石清水八幡宮へ行く
石清水八幡宮に行った。残された時間が少しずつ短くなって来ることを自覚するようになると、少しでも多くの場所をこの世の見納めに訪れておきたいと思うようになる。本当はあと一二週間ほど待って、花の満開の折にでも来ればよかったのだろうけれど、ここもまた花見の観光客で混雑することが予想される。
長らく洛西に住んでいたので、いつも眺める景色は東向きだった。それも桂川、淀川の西岸からがほとんどで、淀川を渡って訪れることもなく、だから伏見、淀、久御山、八幡市には本当に縁がなかった。石清水八幡宮を訪れるのも初めてだった。
石清水八幡宮は歴史のあるお宮で、紫式部の「源氏物語」や兼好法師の「徒然草」にも記録されている。とりわけ、徒然草の中では、麓にあった極楽寺を八幡宮と思い込んだ仁和寺の法師が、「神へ参るこそ本意なれと思ひて、山までは見ず」と肝心の山の神には参らずに帰ったことから、「すこしのことにも先達はあらまほしきことなり」と兼好法師に皮肉られたことで知られている。
山道のように続く寂びた参道を歩いていて、あらためて想起させられ痛感したことは、明治維新の「廃仏毀釈」によって、幕末までには存在していた多くの壮大な寺院や僧坊が毀され廃棄されたことである。その事跡を見ても明治維新が単なる維新ではなく、悟性的で狂信的な精神によって遂行された「革命」であったことがよくわかる。
大化の改新以来、「神仏習合」の伝統として、両者の長所を理性的に融合し保存してきた長い日本の歴史がある。それを引き裂き破壊し伝統と文化を毀損したのは、革命という悟性的な精神で行われた「明治維新」である。そのために、仁和寺の法師が八幡宮と取り違えた極楽寺も取り壊されてもう見ることもできない。
もちろん、吉田松陰や坂本竜馬たちの殉難のうえに成し遂げられた「明治維新」の偉業はどれほど高く評価されてもいい。「明治維新」がなければ、日本社会が旧套墨守の旧態依然としたままに終わり、中国や朝鮮などとおなじ歴史的な宿命を背負うことになったかもしれない。
しかし、だからといって「明治維新」というコインの裏側を見過ごすこともできない。歴史は勝者によって書かれるという。明治維新もそうである。そのために私たちが学んだ「明治維新」という「歴史」には、その「負の側面」はほとんど語られることがない。全てが薔薇色に描かれていると言える。
しかし、歴史の真実の追求には時効はない。「廃仏毀釈」という深刻な文化と伝統の破壊をはじめとする「明治維新」の負の側面についても、これからも歴史的な検証は行われてゆく必要がある。
石清水八幡宮の参道を辿り、男山の山頂から美しい京都の町並みを見下ろし眺めながら思ったことだった。
織田信長が天正8年(1580年)に八幡宮に寄進した土塀
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