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政治学者の猪木正道氏がさる11月5日になくなられたそうである。最近はほとんどマスコミ界にも登場されることはなかったから、最近の動向は全くわ からなかった。青年時代に氏の著作は読んだ記憶はある。内容については忘れた。氏が防衛大学の校長をされておられたということはよく記憶に残って知ってい る。
猪木正道氏が、下に引用した論考のなかでも主張されておられるように、国家と市民社会と家族のそれぞれの関係のあり方についてはまことにむずかしい面があると思う。私も以前の論考で、市民社会と国家との関係についていくつか論じたことがある。
一時アメリカや日本でも流行しかけた、いわゆる「新自由主義」のように、国家が市民社会や家族とに無関心で関わりも無くなれば、極端な場合は、それ こそホッブスのいう、「万人は万人にとって狼である」という社会に、弱肉強食の格差社会になってしまって、本当の弱者は居場所も無くなってしまいかねない。
かといって、民主党のように国民に媚びて財源のことも考えず社会保障を充実させたり、また、かっての自民党のように、土木利権国家となって過度に不必要な公共投資を行うと、無駄な公共工事による赤字で現在のように国民も負いきれない借金を抱え込むことになる。
また、全体主義や共産主義のように、国家が市民社会や家族に干渉しすぎたりすると、自由も無くなり人々は働かなくなったり腐敗したり戦争に駆り立てられたりして破滅する。これらの 事実は 過去の歴史においても証明されている。ヘーゲルのいう「理性国家」は理念としては正しいとしても、その具体化となると、現実の市民社会や他の諸国家とのし がらみに絡み取られて、その兼ね合いやバランスを取ることが極めてむずかしい。諸国民の苦悩もここにあると言えるかもしれない。
その上、今の官僚や政治家たちも、大学や大学院でもカントやヘーゲルなどほとんど教えられず勉強もしないから、猪木正道氏の主張するような問題意識も発想も出てこない。それで不幸になるとすれば、それは国民大衆である。
猪木正道氏のような学者がいよいよ消滅してゆくのが気の毒な日本の現状ではないだろうか。
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【昭和正論座】国家の正しい位置づけを 防衛大学校長・猪木正道
昭和49年3月25日掲載
≪欲求不満のダイナミズム≫
物価騰貴に怒り、ジェット機や新幹線の騒音を告発する国民の声は、マス・メディアを通じて増幅され、“一億総憤激”の観を呈している。もっとも注目すべき点は、憤激の矛先が主として“国家”に向けられていることだろう。自由経済ないし市場経済の下では、国家が物価の動向に果す役割は本来限定されているはずなのだが、公共料金等政府の責任範囲は広まるばかりであるから、国家が少なくとも共同被告の立場に置かれるのも無理はない。
しかし国家が“一億総憤激”の的とされるのには、もっと深い根拠があるように思う。第二次世界大戦中に物価騰貴どころか、食糧、衣料その 他物資の不足はひどいもので、戦争末期には都市の住民は敵機の爆撃や強制疎開により住宅まで奪われたけれども、戦争遂行という大義名分がまかり通って、国 民の不満は少なくとも表面化しなかった。国家の巨大な力が、社会を圧倒し、不満の表面化さえ許さなかったからである。
“一億総憤激”の前兆は、敗戦後二十年をへた一九六五年あたりからぼつぼつ現れたように思われる。その頃わが国では高々度経済成長のひず みが露呈され、欲求不満のダイナミズムが噴出しはじめた。ベトナム戦争への米国の介入が本格化したのにともなって、アメリカばかりでなく、自由世界のほと んどすべての先進国で、小国に対する爆撃への嫌悪感が高まった。急進的・破壊的な学生運動が日、米、英、独、仏、伊の諸国で荒れ狂ったのも六七年頃から だった。物価、公害、戦争等々に対する憤激が互いに結びついて、“国家”を弾劾する一種の反国家的ムードが地球上いたるところの先進諸国に拡がった。
≪国家に対する社会の反撃≫
第二次大戦の終結まで、さらには東西の冷戦が対決の段階から交渉の段階に移行するまで、社会の側からの要求は強大な国家権力によって吸収され、抑圧 されてきた。六〇年代の後半から自由世界の先進諸国でその反動期がはじまり、私たちは今や国家に対する社会の噴出という新しい時代に入ったといえるのでは なかろうか?
もっと遡(さかのぼ)って考えると、国家と社会との関係は、近代国家と市民社会とが歴史の舞台に登場して以来、一貫して国 家 が社会を圧倒し、蚕食して、とめどもなく肥大するという一方的なものだった。十八世紀末のフランス大革命を機として大陸諸国に徴兵制が施行されたことと、 十九世紀の三十年代に工場法という形で英国の工場に国家権力がはじめて介入したことの二つは、国家の社会に対する優位を確立した意味で、真に画期的な出来 事であった。
さらに義務教育の普及という形で、国家は教育を手中に収め、種痘の強制など保健・衛生面で、また失業・災害保険等社会政策・社会保障の面で、国家権力のガン細胞的な増殖は二十世紀に入って加速度を加えた。
ヒトラーの第三帝国とスターリンのソ連とは、右のような国家肥大現象の頂点であったといっても過言ではあるまい。一九四五年四月末にヒトラーがベル リンの防空壕(ごう)内で自殺し、八年後の三月五日にスターリンの死が発表された時、全体主義国家への国家の肥大傾向は停止した。そして一九六〇年代の後 半から、ベトナム戦争と高度成長とに対する批判をきっかけとして、国家に対する社会の反撃が噴出しはじめたのである。
≪無政府状態の現出の恐れ≫
よく知られているようにヘーゲルは人倫のありかたを家族、市民社会および国家の三段階に区分した。そして彼は市民社会をもろもろの欲求の体系として とらえ、市民社会の矛盾を克服するのは理性国家の使命であると考えたのである。ヘーゲルの国家観が現実の国家の分析というよりは、国家のあるべき理想像の 提示であったことは疑いない。反動的なプロイセン政府の検閲を回避するため、ヘーゲルは公刊の著書では必ずしも真意を表明できなかったといわれる。しかし 現実の国家が理性国家の名に値するか否かは別として、市民社会がもろもろの欲求の体系であることは間違いない。
国家が社会を圧倒し、蚕食して、とめどもなく肥大するという全体主義化の傾向には、すこぶる危険な要因が含まれていたことは間違いないけれども、その反動として国家に対する社会の反抗が噴出するのも大変恐ろしい徴候(ちょうこう)である。
なぜならば、社会を構成する人々のもろもろの欲求が野放しにされると、文字通り万人の万人に対するたたかいが開始され、無政府状態が現出するからである。
ヒトラーが一九三三年一月三十日に形式的には議会制の枠組みの中で権力を掌握しえたのは、ワイマル・ドイツの末期にもろもろの欲求が解放され、万 人の万人に対するたたかいがはじまろうとしたからではなかったか? スターリン暴政が形成された背景には、第一次大戦で完敗して以来、ロシア国内に進行し たインフレーションと内戦との大混乱があったことも想起されなければなるまい。
≪民主主義の暴走が独裁へ≫
アリストテレスが二千年以上前にはっきり教えているように、もろもろの欲求の噴出としての民主制の暴走 は無政府状態の恐怖を生みだし、僭主制すなわち暴君の独裁を不可避にする。六〇年代の後半からはじまった社会の噴出、すなわちもろもろの欲求の爆発は、た しかに重大な警戒信号だといってよかろう。
この危険に対処する方法はただ一つしかない。すなわち国家を正しく位置づけることである。社会を圧倒し、蚕食して、ガン細胞のように増殖 し、肥大する国家の全体主義化が不健全であることはいうまでもないけれども、この半面にもろもろの欲求が噴出して、欲求の体系としての社会に国家が呑み込 まれてしまうのも恐ろしい病理現象である。国家はどのような機能を行うべきであって、何をしてはならないかをはっきりさせ、国家として真に果すべき機能だ けを公正に果すことにする以外に問題解決の道は存しない。
国家の肥大化に抵抗する社会の噴出現象そのものが、いわゆる行政指導の強化や立法措置のエスカレーションを通じて、逆に国家の肥大化を助長 しているのは、皮肉というほかあるまい。国家はしばしば必要悪に堕落することはあっても、今日の人類にとって必要不可欠であることは疑いない。戦前の教育 が国家主義に偏した反動として、戦後の教育において国家が無視されたり、敵視されたりしていることはすこぶる遺憾だ。全体主義と無政府主義との両極に暴走 しない国家の正しい位置づけこそ、これからの日本にとってもっとも重要な課題であると私は考える。
(いのき まさみち)
2008.10.11 08:33 MSN産経ニュース再掲
【昭和正論座】日中経済協力の幻想と虚構 東京外語大教授・中嶋嶺雄
昭和56年2月20日掲載
◆軽佻浮薄だったフィーバー
中国が「毛沢東思想」の赤旗を高くかかげ、“造反有理”を鼓吹していた一時期、わが国知識人の多くは、この文化大革命に熱っぽく陶酔したものだっ た。その中国が“自力更生”の旗を下ろして「四つの現代化」をかかげはじめると、今度は、わが国の政・財・官界が、あげて中国熱にとりつかれた。「日中友 好、子々孫々」「一衣帯水」「中国は信義にあつい」といった言葉がどれほど強調されたことか。だが、日中関係の重い歴史的現実を冷静に見きわめれば、こう したフィーバーがいかに軽佻浮薄(けいちょうふはく)なものであるかは歴然としていた。いまや幻想と虚構は音をたてて崩壊しつつある。
中国が南京石油化学コンビナートなどの大型プロジェクト導入を一方的にキャンセルしてきた当日、私は、ある日中経済関係者と面談する機会をもった が、その当事者は最大の罵倒の言葉をもって中国側の非を怒っていた。これは、まったく予想したとおりの日本人的な反応である。だが、つい先日まで過度の中 国傾斜を見せていたこれらの人びとは、日中関係がそもそも「異母兄弟」としての宿命的位相にあるので、過度の接近は必ず反発を招き、そこに金銭的・経済的 問題がからむと他人以上に難しい関係に陥り、こうして、日中関係は期待と幻滅、友好と敵対との往復循環をくりかえしてきたのだという歴史の教訓を真剣に顧 みたことがあったのだろうか。
今回の日中経済関係の蹉跌(さてつ)は起こり得べくして起こったものであり、私自身も、これまでにしばしば予告し、警告してきたつもりである。
そもそも、中国における「四つの現代化」は、いわゆる近代化への道ではあり得ず、それ自体、非毛沢東化のための政治戦略だったのである。したがっ て、当の中国では、こうした政治戦略が党内で合意を見るまでは、その可能性を大いに鼓吹したのであるが、さる一九七八年十二月の中国共産党三中全会におい て、トウ小平らのいわゆる実権派が陳雲らの旧経済派幹部を復権させるとともに、華国鋒らの文革右派を「自己批判」においこみ、こうして「四つの現代化」が 国家目標になったとたんに、目標のより安全な達成のためにも、当初の誇大なプログラムを縮小しはじめたのであった。
ちょうどそのとき、わが国は七八年二月の日中長期貿易取り決めや同年八月の日中平和友好条約調印に伴う日中ブームのなかで、「四つの現代化」の政 治的意味を考慮せず、われもわれもと一斉に中国へ出ていったのだから、すでにこのときから、今日の結果は予測されていたといわねばならない。
◆政治的な意味も考えず
しかも、今回のプラント導入中止の決定が、全国人民代表大会や国務院の決定ではなく、また党大会や党中央委員会の決定でもなくして、昨年十二月中 下旬の党中央工作会議という“非合法”会議でおこなわれていることにも歴然としているように、中国側は、今日にいたるも、政治闘争の一環として日中関係を 位置づけざるを得ないのである。だから、同じ十二月の初旬におこなわれた日中閣僚会議がいかに空(むな)しいものであったかも明白であろう。もとより、当 面のトウ小平・華国鋒対立に示される政治闘争が背後にあることは明白であり、この点はいま説明を要しないであろう。
それにしても、宝山製鉄所問題ではすでに昨年三月二十一日付『人民日報』論文で周伝典・冶金工業部技術弁公室副主任が中国政府側としても明白に問 題点を指摘しており、また昨夏の全国人民代表大会での宝山製鉄所建設問題詢問会では、「もし前半で(日本側に)だまされたなら、後半でだまされ方を少なく する方法があるのかどうか」(李瑞環・北京代表、『人民日報』九月七日)といった意見さえ出ていて、中国内部ではすでに大問題になっていたのである。私自 身も昨年六月、宝山製鉄所の現場を視察し、問題がいかに深刻であるかを見てきたし、たまたま華国鋒来日にちなんだフジテレビでの稲山嘉寛氏との対談(五月 二十一日)でもそれらの問題点を申しあげたのだが、日中経済協力の立役者・稲山氏自身も大変楽観的だったのである。
このように見てくると、今日の問題は中国側を責める以上に日本側に甘さがあったことは否めない。その原因を詳述する紙数はないが、まず第一に、 政・財・官界のおそるべき単純思考と見通しの甘さ、とくに、本来エコノミック・アニマルであるはずの財界首脳の見通しの甘さと中国認識の浅さ、第二には、 これも幻想でしかない中国石油の可能性への幻惑と“中国石油屋さん”の跳梁(ちょうりょう)、第三には「四つの現代化」にアドバイスしたりして中国事情に にわかに通じたかのようなわが国の代表的エコノミストや官庁エコノミスト、および代表的なシンクタンクの中国分析の甘さ、第四には、わが国の新聞の「四つ の現代化」や中国石油、日中経済関係についての記事の甘さ(この点では、とくにクォリティー・ペーパーとしての『日本経済新聞』の責任がきわめて大きいこ とは、ここ二、三年の同紙縮刷版を開けば歴然とする)、第五には、日中経済関係の窓口である日中経済協会の“親北京”的体質の問題などが指摘できよう。
◆いさぎよく損失覚悟を
こうして破綻は起こるべくして起こり、いまや日中関係はいつか来た道をくりかえす危険にさえさらされている。かつて一九一七~一八年に段祺瑞政権 への“善意”の「西原借款」が日中の破局へとつながっていったように、いまや「四化借款」が中国の対日感情を刺激しつつある。今回の民間ベースの問題のみ ならず、すでに政府円借款にも問題が出はじめており、私は、こうなった以上、財界も政府も中国側に補償など求めずに、いさぎよく損失を覚悟すべきだと思 う。トウ小平副主席は「小さな面倒」といい、谷牧副首相も「三千億円、十五億ドルなら巨大な日本経済の中で小さなものですね」といっているではないか。 (なかじま みねお)
◇中嶋嶺雄氏は現在は、国際教養大学の学長をされておられるようです。
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