夕暮れのフクロウ

―――すべての理論は灰色で、生命は緑なす樹。ヘーゲル概念論の研究のために―――(赤尾秀一の研究ブログ)

ヘーゲル『哲学入門』序論についての説明 二[経験について2]

2019年06月27日 | ヘーゲル『哲学入門』

 

Erläuterungen zur Einleitung  §2

Bei den Bestimmungen, was recht und gut ist, können wir uns zunächst an die Erfahrung überhaupt halten und zwar fürs Erste an die  äußerliche,  nämlich an den  Weltlauf.  (※1)Wir können sehen, was als recht und gut  gilt oder was sich als recht und gut bewährt. Hierüber ist zu bemerken: 1) dass, um zu wissen, wel­che Handlungen recht oder gut und welche unrecht oder böse sind, man schon zum   Voraus  den Begriff des Rechten und Guten haben müsse; 2) wenn man sich also daran halten wollte, was der Weltlauf auch als geltend zeigt, so würde sich darüber  nichts Bestimmtes  ergeben. Es käme in Ansehung der Resultate oder der Erfahrung, die man macht, auf die Ansicht an, die man mit­bringt.
In dem Weltlauf, weil er selbst dieses verschiedenartige Geschehen ist, kann Jeder für seine subjektive Ansicht, sie mag noch so verschieden sein, Bestätigung finden. Es gibt aber auch zweitens eine  innerliche  Erfahrung über das Rechte, Gute und Religiöse.

序論についての説明 第2節[経験について2]

何が正しいのか、そして何が善いのかを決定する際に、私たちはさしあたっては経験一般に頼ることができ、それも確かに第一には 外的な 経験に、言い換えれば、世路 に頼ることができる。(※1)

私たちは、何が正義で、また何が善として認められているのか、あるいは、何が正義で、また何が善であると証明されているのかを知ることができる。これについては次のことが注意されなければならない。1) どのような行動が正義で、あるいは善であるのか、どのような行動が不正であり、あるいは悪であるのかを知るためには、人は あらかじめ  正義と善についての概念をもっていなければならないということ、 2)そこで、もし人がまた世路が認めていること(正義と善についての概念)に固執したとしても、それについて  何一つ決定的なものは 与えられないだろう。人が作り上げる結論や経験の見解というのは、人が身につけている考え方次第である。(※2)

世路自体はこうした多様な現象であるので、世路においては、なおその主観的な見解がどのように異なったものであったとしても、すべての人は賛同を見いだすことができる。
しかしまた、第二に、正義や善そして宗教についての 内的な  経験というものがある。

Wir urteilen durch unser  Gemüt  oder  Gefühl,  dass etwas von dieser Handlungsweise gut oder böse ist; auch haben wir ein Gefühl von Religion; wir werden religiös affiziert. Was das Gefühl als eine   Billigung  oder  Missbilligung  desselben sagt, enthält bloß den unmittelbaren Aus­spruch oder die Versicherung, dass etwas so ist oder nicht so ist. Das Gefühl gibt keine Gründe an und spricht nicht nach Grün­den.

私たちは自分の 心情(Gemüt)あるいは 感情(Gefühl)を通して、この行動の仕方について何が善であり、あるいは何が悪であるかということについて判断する。さらに、私たちは宗教的な感情をもっている。私たちは宗教に影響される。その行為について 是認する とかあるいは 否認する というような感情の告げることは、何がそうであり、何がそうでないというだけの単なるただの直接的な表現、あるいは保証が含まれているにすぎない。感情は何らその根拠を与えるものではないし、根拠にもとづいて言うのでもない。

Was für ein Gefühl wir haben, der Billigung oder Missbilligung, ist auch bloße Erfahrung des Gemüts. — Das Gefühl aber ist überhaupt  unbeständig  und  veränderlich.  Es ist zu einer Zeit so beschaffen, zu einer anderen anders. Das Gefühl ist über­haupt etwas  Subjektives.  Wie ein Gegenstand im Gefühl ist, so ist er bloß in mir als besonderem Individuum.(※3)

私たちが心情として持つものは、それに同意するにせよ、あるいは同意しないにせよ、それはまた心の単なる経験に過ぎない。その感情はしかし一般に 気まぐれ であり、変化するもの である。感情はある時にはある状態にあり、また別の時には他の状態にある。感情は要するに 主観的なもの である。一つの対象をどのように感じているとしても、それは単に特殊な個人としての私のうちにあるにすぎない。

Wenn man wahrhaft erkennen will, was eine Rose, Nelke, Eiche u. s. f. ist, oder ihren Begriff auffassen will, so muss man zuvör­derst den höheren Begriff, der ihnen zu Grunde liegt, auffassen, also hier den Begriff einer Pflanze; und um wieder den Begriff der Pflanze aufzufassen, muss man wieder den höheren Begriff auffassen, wovon der Begriff Pflanze abhängt und dies ist der Begriff eines organischen Körpers. — Um die Vorstellung von Körpern, Flächen, Linien und Punkten zu haben, muss man die Vorstellung des Raumes haben, weil der Raum das Allgemeine ist; hingegen Körper, Fläche u. s. w. sind nur besondere Bestim­mungen am Raum. So setzt Zukunft, Vergangenheit und Ge­genwart die Zeit als ihren allgemeinen Grund voraus und so ist es denn auch mit dem Recht, mit der Pflicht und Religion, näm­lich sie sind besondere Bestimmungen von dem  Bewusstsein,  welches ihr allgemeiner Grund ist.

もし人が本当にバラ、カーネーション、樫の木、などとは何か、あるいはそれらの概念を把握したいのであれば、つまり、その概念を理解するためには、まずその根底にあるより高い概念、つまりここでは植物の概念を理解する必要がある。そして、さらに植物の概念を把握するためには、人は植物という用語にかかわるより高い概念を再び把握しなければならない。そして、これは有機体という概念である。
物体、表面、線、および点の観念を持つためには、人は空間の観念を持たなければならない。なぜなら、空間は普遍的だから。これに対して、物体、表面、などは単に空間についての特殊な規定に過ぎない。同じように、未来、過去そして現在はそれらの普遍的な根拠として時間を前提としている。そして、それはまた法律、義務、そして宗教についても同じで、すなわち、それらは 意識  の特殊な規定であり、意識はそれらの普遍的な根拠である。(※4)

 

(※1)
der Weltlauf.  世故、世路、
lauf は普通「走ること」「歩み」などを意味すると考えられ、Weltlauf はしたがって、「世間の道」「世間の歩み」といった意義である。ヘーゲル精神現象学の訳で知られる金子武蔵は「世路」と訳している。私もそれを踏襲した。武市健人などは「世故」と訳している。
日本語では、世知、世間知、世俗の知恵、世間の常識 ぐらいの意味だろう。

(※1)
私たちのいう「経験」には単に「私」の経験のみならず、他者、他人の経験も含まれる。私たち個人は、すべてのことを経験し尽くすことはできない。そこで、未体験、未経験の事柄について私たちが判断や結論に迫られる場合、まず、とりあえずは世に通用している常識などにしたがっていれば、「大きく道を間違えることはない」と考えている。その場合には私の個人的な「経験」に頼るのではなく、広い意味での他者、他人の「経験」にしたがって、物事の是非や善悪を判断しているということになる。しかし、これらの「経験」はただ、理由や根拠を示すことができない。社会常識や宗教は、たとえば「盗むな」と教えるけれども、そこではその確たる根拠や理由を説明しない。

(※2)
物事の是非や善悪を判断する根拠になるのは、物事の「概念」である。だから、物事について正しい判断を得るためには、正しい「概念」をもっていなければならない。だから、人間の行為や国家のあり方について、正しい判断をえるためには、人間や国家についての正しい「概念」を人は持ち得ていなければならない。「概念論」の決定的な重要性もここにある。

(※3)
単なる心情(Gemüt)あるいは感情(Gefühl)だけでは、それは各個人の内部の主観的な断言や確信にとどまるもので、気まぐれで時には変化するもので、それらは客観性も普遍性も持ちえない。それでは他者との議論も共同性も成立しない。それを「概念」による論証や証明によって、認識や判断の客観性や普遍性を目指して、哲学を「単なる愛知」から「科学(Wissennshaft)」へと高めたのがヘーゲルである。


(※4)
もし人が事物について、それが何であるかを明らかにしようとするとき、つまり事物について定義しようとするときには、それらの事物の根底にあるより高い概念を、すなわちより普遍的な上位概念を持ち得ていなければならない。バラや菊、松などの根底にある高い概念は植物であり、その植物のさらに根底にある概念は「有機体」である。逆にいえば、バラや菊や松などは植物の特殊な規定である。同じことは、点や平面、物体と空間との関係についても、また過去、現在、未来と時間との関係や、法律、義務、宗教と「意識」の関係についても言える。法律や義務、宗教の根底にあるより高い概念は「意識」である。ちなみに、もっとも抽象的で普遍的な概念は、「物質」あるいは「観念」である。

 

※追記(20190704)

 上記の(※1)で取り上げた「der  Weltlauf.  世故、世路」については、ヘーゲルが「精神現象学」において、徳と世路(Die Tugend und der Weltlauf)の対立として論じていることでよく知られている。

世路、der Weltlauf は、いわば世間知や一般常識として「大人の立場」として肯定的に評価される。「世路、der Weltlauf 」に示されている、世間知や一般常識は、確かに、その理由や根拠を明確に提示するものではないけれども、歴史や伝統の上に承認されてきた「知」として、若者の一面的な正義感、「徳、Die Tugend」よりも高く評価される。

 

若者の態度と大人の立場

 

 


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