ドイツ語の「Verfassung」には、もともと「書く」「記す」「著作」「起草」「体制」、「統治組織」、「心身の状態」、「身体の調子」などの意味もあるらしい。(三修社現代独和辞典)。憲法は英語では、Constitutionである。
高峯一愚氏の訳業になる『法の哲学』(論創社)において、第272節の標題は「一 国内国家体制自体」と訳し出されている。けれども、それでは原語の「Innere Verfassung fuer sich 」のニュアンスは当然のことながら十分には現し切れてはいない。言うまでもなく、Verfassung は、普通に日本語に訳すのなら、「憲法」と訳し出すはずである。しかし、高峯氏は、ここでは「国家体制」と訳しているから、この日本語訳には「Verfassung」に含まれる「憲法」の意義は現れてこない。したがってこの日本語訳だけを読めば、ここでヘーゲルが「国家体制」だけを論じて、「憲法」についても論じている個所であるということになかなか思い至らない。また、「fuer sich 」を「自体」と訳すだけでは、国家体制(=憲法)という概念の進展の意味合いが消えてしまう。翻訳の困難なところである。
ドイツ人の観念から言えば、国家体制と憲法は、同じ用語で、同じ概念の「Verfassung」で表現される。そして、ヘーゲルに言わせれば、国家体制(=憲法)が理性的であるのは、国家がその概念の本性にしたがって、自己のうちに区別を規定し、また、そうして区別されたそれぞれの要素を相互に作用しあうものとして自己の中に含んでいるからである。国家体制(憲法)が「概念の観念性」にとどまって一個の個別的な全体を構成するとともに、それぞれの要素もみずから個体的なものでありながら一つの全体を構成しているからである。
言うまでもなく、ここでヘーゲルが念頭に置いているのは、国家のおける三権分立であって、国家権力が必然的に立法権、司法権、行政権へと分割されることに、国家体制の概念の本性の理性的な性格を洞察している。しかし、ヘーゲルの三権分立論は、かならずしもモンテスキュウやカントのそれとは同じではない。それがどのように異なるかは、後に君主権を論じる時に詳しく展開しているが、要するに、ヘーゲルの場合は、彼の「概念」が、普遍性――特殊性――個別性という区別された諸要素に定立されるとともに、それらがまた不可分な活きた統一であるところに特色があるからである。「概念」のそうした理性的なものの見方に対して、抽象的で否定をもっぱらとする悟性は、この活きた統一をバラバラにして、活きた概念である生命や国家を殺してしまうのである。抽象的で否定的な悟性的精神で行われたフランス革命が、結局、立法権と行政権が互いに分裂して争い、やがて崩壊していったことを、ヘーゲルはその歴史的な例として挙げる。
ヘーゲルにとっては、国家とは精神が絶対的な必然をもってみずからを形成した理性的な世界である。そして、ヘーゲルにとって精神は自然よりも高く評価されるから、精神の産物である国家は人類至高の芸術作品とも捉えられ、また「国家は地上の神のように敬わねばならない」とも言う。
ヘーゲルの当時も国家体制については多くの人々によって、無限の饒舌が蝶々されてはいた。ヘーゲルは、それらはいずれも、空虚な饒舌の氾濫にすぎないとして嘆いている。というのは、それらの饒舌はいずれも「生半可の空論」や「宗教的な心情や霊感」から生み出されたものであって、「概念」の展開として哲学の認識の対象になるようなものではなかったからである。それは、当時のカント主義者やロマンティカーに対する辛辣な批判の繰り返しであって、若き日の処女作である『精神の現象学』の中でヘーゲル自身がみずからの哲学を打ち立てる中で展開した批判と同じである。
高峯一愚氏は、また自身の訳注の中で、マルクスのヘーゲル法哲学批判を引用して(どの個所からの引用であるかは不明であるが)、次のように言っている。
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マルクスはここで、ヘーゲルの「概念の本性にしたがって」を批判し、「それゆえ、憲法の理性は抽象的な論理であって、国家の概念ではない。憲法の概念の代わりに、われわれは概念の憲法をもつ。このような思想はみずからを国家の性質へではなく、むしろ国をできあがった思想へと導く」という。
(P346訳注)
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しかし、概念の本性としての普遍性、特殊性、個別性の諸要素についての思想と論理は、当然にまた国家体制(憲法)の思想であり論理でもあるのであって、その概念の本性にしたがった活動の結果として、三権分立の国家体制(憲法)を合理的なもの、理性的なものと見るヘーゲルの国家観は必然的であり、論理的であり、まちがってはいない。この高峯氏の無批判な引用にも、ヘーゲルの概念観についての、根本的な誤解があると思う。
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