玉川上水の辺りでハナミズキと共に

春は花 夏ほととぎす 秋は月 冬雪さえてすずしかりけり (道元)

*惜別・再び

2025年02月24日 | 捨て猫の独り言

 2月8日の夕刊の「惜別」は詩人の谷川俊太郎さんだった。2024年11月13日死去(老衰)92歳。死亡日は北の富士さんの翌日だ。文責は谷川さんの晩年にロングインタビューを試みた記者のT嬢だ。「思考を、感覚を、なんとか理解したいと質問を重ねた。けれど、つかめるかもしれないというところでするりと手から抜けていってしまう。後日、取材の録音を聞き直して気づいた。かわしたのではなく、面倒くさがったのでもなく、誠実だったのだ。(中略)

 70年以上詩を書き続けられた理由を尋ねると、すぐにこう言った。〈それは疑っているからでしょう。詩を疑ってる、言葉を疑ってるから〉(中略)疑いながら、信じながら、割り切れないまま受け入れ、向き合う。それが、谷川さんの示した《生きているということ》だったのろう」 と惜別の記事は書かれていた。

 詩人は死去の直前まで夕刊に月一度「どこからか言葉が」のコーナーに投稿を続けた。2022年12月に掲載された「今といという時」と題した詩をつぎに書きとめておく。

 すぐ消え去って  二度とかえってこない  今  この今は  永遠と同じく   歴史に属していない   

 今という時を  刻々に  いのちは生きる  天に湧く  雲とともに  地に沁みる  驟雨とともに

 そしてヒトは  星々とともに  激しく回転し続けて  天に散らばり  時に溶けてしまう

 

 お知らせです。都合によりブログ投稿をしばらくのあいだ休みます。またお会いしましょう。

 

 

 

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*医療と介護と

2025年02月17日 | 捨て猫の独り言

 仏教では人生を苦と捉え、人間として避けられない四つの苦しみに生老病死があると説く。生まれることがハッピーでなく苦なのか。これは苦しみとは思い通りにならないことと考えれば、なるほど人の誕生も苦なのだ。「人生は重荷を背負うて遠き道を行くが如し」の家康は人の誕生をどう捉えていたのだろう。

 老と病はまさに人それぞれである。生まれたときから介護なしでは生きてゆけない人もいるし、ピンピンコロリの人もいて千差万別だ。ここでは、私がよく知る女性(80歳)について話そう。彼女はちょうど50歳の時に致死率7割と言われるくも膜下出血から生還する。手術の際には執刀医に当時医学生であった長男を自分の手術に立ち会わせたいと懇願し、それは認められた。

 60歳の定年の直後にはピースボート船旅で世界一周したり、その後もパートの仕事を続けるなど元気だった。そして72歳の夏に、最初のてんかん発作に見舞われる。けいれんは年に一度ぐらいの割合で2~3年おきに起きたものの体育館にも通ったりしていた。そして75歳のとき、たまたま脳動脈瘤が見つかり予防的に2度目の開頭手術を断行する。その後も平穏無事にくらせていたが、昨年あたりから体重は激減し、咳が頑固に続く肺MAC症にも悩まされるようになった。そして軽いけいれんではあるがその頻度が増していく。

  

 薬を服用していてもけいれんはなんの前触れもなく起きる。単独で出歩くことに恐怖心はないのか尋ねたことがある。返事は「そんなことを考えていたらなにもできはしない」だった。そして、つい最近の今年の1月末に、けいれんをおこし一週間の入院という事態を招く。拘束帯で自由に動けなくなるなどストレスの多い入院でますます体力は奪われていった。退院後、今まで出来ていたことができなくなっている。焦り苦しんでいるはずだ。あるがままを受け入れて、今こそ彼女を支える時だろう。でも私一人の力では乗り越えることは不可能だ。これまでは医療だけだつたがこれからは医療と介護という二つの制度に頼ることになる。ひとは一人で生きられない。

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*惜別

2025年02月10日 | 捨て猫の独り言

 夕刊に「惜別」というコーナーがある。2月1日のそれに北の富士勝昭さんが掲載されていた。2024年11月12日死去(急性心不全)本名・竹沢勝昭82歳。文責は北の富士担当記者のN氏だ。N氏は初場所が始まった頃の朝刊の「角界余話」にも北の富士さんについて5回連載の特集記事を書いている。「北の富士さん師匠譲りの粋」「大関昇進横綱に紋付拝借」「師匠と一緒に独立破門に」「ハガミは餞別ごっつあんです」「《みえと突っ張り》引き際でも」

 師匠とは41代横綱・千代の山。大関への直近3場所の勝ち星は計28勝。紋付を拝借したのは出羽の海部屋の兄弟子の横綱佐田の山。解説者になってからも大関昇進の話になると言葉を濁した。「俺は人のこと言えねえからな」と。出羽海部屋から九重親方(元横綱千代の山)が独立し九重部屋を興して破門。師弟そろって破門された九重部屋は高砂一門に拾われた。

 相撲界で「端紙(はがみ)」といったら、借用書のこと。力士から「ハガミ、ごっつあんです」と言われたら「金を貸してくれ」という意味だ。出羽海部屋から分家独立して部屋を出ることになった北の富士さん、この頃は出羽海親方に繰り返し遊興費を無心し、端紙が積み上がっていた。「必ずお返ししますので」だが親方はこういった。「餞別だ」。生前「ああいう一言がいえる大きな男になりたいと思ったんだよ」と語っていた。

 元横綱に許される国技館の土俵での「還暦土俵入り」を辞退し、ホテルで披露した。「みっともないケツを見せたくなかったんだよ。年を取ると、どこから肉が落ちるか知ってるか?まず尻、次に肩口の筋肉。最後に残るのが腹。そんな姿を四方八方から見られたくなかったんだ。みえと突っ張りで生きてきたから」そしてN氏は「惜別」の記事の冒頭を「NHKの大相撲中継で実況のアナウンサーから、たった今の一番をを問われ、《あ、ごめん。見てなかった》。そんなコメントが許される解説者は、もう現れないだろう」と書き起こしている。

 

 

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*空即是色

2025年02月03日 | 捨て猫の独り言

 愛読書の一つに、遠藤誠(2002没)著の般若心経がある。弁護士でもあり仏教者でもある著者の生き方そのままに型破りの著作だ。デカルトの「我思う、故に我あり」とは「あらゆるものの実体は存在しないかもしれないが、しかしあらゆるものの実体の存在を疑っているこの自分というものだけはたしかにここに存在する」という、ヨーロッパの「自我の確立」思想である。

 それに対して仏教ではその自我、すなわち心と呼ぶ精神作用に振りまわされているから人間の苦悩はなくならないとする。すなわちクルクルと変化し続けるという意味において心(自我)というものの実体はないとする。色即是空。色は我々人間の肉体のこと。空はこの世に本当に独立に実在しているものはなくあらゆるものは絶えず変化するということだ。

 破天荒な著者は言う。「自分という実体はなにもないのです。あると思っているのは単なる夢まぼろし錯覚なのです。また、ここに女房のかっこうをした生きものがいるようにみえるが、そんなものは夢まぼろしであって実体は何もないのだという世界をガッチリと腹に入れちゃうと何がおきても〈ああそうか〉で終わっちゃう。そしてそのような夫婦関係、親子関係がかえって夫婦や親子の円満な人間関係を永続させることになる」(小金井公園にて)

  

 般若心経は色即是空のあと空即是色と続く。A=BはB=Aで同義反復である。この著作における空即是色の解釈に私はいたく納得させられた。(-1)×(-1)=+1である。否定の否定、あるいは否定を徹底したその先にある世界では、一木一草、道ばたで踏まれながら生えている雑草に至るまで、美しく見えてくる。この世はこのままで美しく見え、この世はこのままで楽しく見えてくる。これが空即是色の世界だというのである。

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*京都奈良旅計画②

2025年01月27日 | 捨て猫の独り言

 3日目、地下鉄東西線を太秦天神川駅から東山駅まで乗り、徒歩10分の平安神宮(1895年)に向かう。明治時代の代表的な日本庭園の「神苑」でのんびりしたい。その後は加茂川べりを三条大橋から四条大橋まで散策する。午後は地下鉄烏丸線で真言宗の開祖・空海とゆかりが深い東寺(796年)を訪ねる。木造としては日本一の高さを誇る五重塔は京都のシンボルだ。講堂にはすべての種類の仏像が揃う。帝釈天半跏像に注目。

 4日目、早めにチェックアウトしてJR京都駅から「みやこ路快速」で奈良へ移動。駅から北へ4㎞の「奈良ユースホステル」に荷物を預けて近くの東大寺(728年)を見学する。法華堂(三月堂)にあった日光・月光菩薩などが耐震構造の東大寺ミュージアムに移管されたという。そこでセット券(大仏殿・東大寺ミュージアム)での拝観がお得のようだ。お参りの後は奈良公園をぶらぶら歩いて鹿と遊ぶ。

 5日目、法相宗の大本山で藤原氏ゆかりの興福寺(669年)を訪ねる。廃仏毀釈により一時は廃寺同然となり、五重塔は売りに出され二束三文で買った買主は塔自体は燃やして金具類だけを取り出そうと考えていたが、延焼を心配する近隣住民の反対で塔は残った。国宝館にある6本の腕と3つの顔を持つ阿修羅像は絶大な人気だ。見学のあとは猿沢池をスタートに、元興寺を中心に古い町屋が点在する「ならまち」を歩く。

  

 6日目、近鉄橿原線の西ノ京駅で降りていよいよ最後の見学となる薬師寺と唐招提寺を訪ねる。両寺は10分ほどで行き来できる。薬師寺(680年)は法相宗の大本山で、かつて管主の高田好胤(1998年没)は分かりやすい法話により修学旅行生に人気があった。中央に金堂、東西に2基の塔を配する伽藍配置で、中でも東塔に注目したい。唐招提寺(759年)は律宗の総本山だ。鑑真(688~763年)は仏教者に戒律を授ける導師として日本に招請された。ここは日本中で私が最も好きな伽藍だ。そして7日目は帰京するだけの日となる。なおこの計画による費用を見積ると一人あたり8.7万円と出た。

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*京都奈良旅計画①

2025年01月20日 | 捨て猫の独り言

 アトランタに住む孫娘が夏休みを利用してこの6月に2人だけで日本に来ることになった。受け入れ側のジジとババはすっかり瘦せ細り体力も落ちた。どうなることになるのか見当もつかない。2年前の正月に家族4人で2週間日本に滞在して長野、京都、鹿児島を回っていた。今回は19歳と17歳の2人が我が家に1ヶ月滞在する。そこでジジが考えたのは自分が引率する1週間の3人での京都・奈良旅行だった。

 できるだけ質素な旅を旨として、京都と奈良のユースホステルにそれぞれ3泊する。国際交流みたいな出会いがあればそれに勝るものはない。仏像には如来、菩薩、明王、天の4種類あることぐらいは事前に教える。庭園についてのはその場に佇み日本人の美意識みたいなものを感じてもらう。宿舎の位置が計画に大きく影響するが、幸運にもどちらのユースホステルも理想的な場所にある。

 東京を9時に出れば12時過ぎに京都に着く。京都駅のD3乗り場から市バス26番に乗り御室仁和寺バス停で下車して、まず仁和寺(888年)を見学する。真言宗御室派の総本山、名高い御室桜は遅咲き桜。先の路線バスで仁和寺から4つ先が「ユースホステル前」という目指すバス停である。ホステルの近くには、古くから月見の名所として知られる広沢池がある。

  

 2日目はまず広隆寺(603年)を目指す。渡来人の秦氏の氏寺(真言宗系)で京都最古の寺。ここでは圧倒的な人気の「弥勒菩薩半跏像」を拝観できる。像の高さ84㎝で赤松の一材で造られている。渡来人がどれほど日本に影響を及ぼしたか考えてみたい。何時間でも見ていたくなる仏像だと思う。2人の反応が楽しみな場面になる。あとは嵐電に乗り天龍寺(1339年)に向かう。足利尊氏と後醍醐天皇ゆかりの禅寺だ。ここの夢窓国師作といわれる曹源池庭園は見逃せない。

 

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*ユースホステル

2025年01月16日 | 捨て猫の独り言

 最近の私の旅といえば、旅行社任せの受け身の旅でその上ついつい暴飲暴食になるという後悔の多いものになっている。それとは違う自ら計画し質素な食事の旅をしてみようと考えた。行く先は京都と奈良でユースホステルを利用する。

 これまでユースホステルの利用経験はない。調べてみると京都には「宇多野ユースホステル」が「広沢池」近くに、奈良には「東大寺」の近くに「奈良ユースホステル」というのが存在することを知った。どちらも仏像や庭園を見学するには絶好の位置にある。

 そこでユースホステルについて調べてみた。若者が旅をして人種や国籍、宗教などの違いを越えて自由に集い相互理解を深める活動としてドイツで始まり世界的に広がった。日本では最盛期の1972年に会員63万人、施設600ヵ所近くあったが、1980年以降は減少を続け施設数は半減以上になっているという。

 申し込みに年齢制限がないのはありがたい。会員でなくても千円増しのビジターとして宿泊可能だ。予約は90日前から受け付けている。客室は基本的には4人から8人までの男女別相部屋になる。少子化や留学を含め海外に渡航する若者の減少など若者の内向き志向はユースホステルにも影を落としている。

 

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*未来への歴史

2025年01月13日 | 捨て猫の独り言

 1/4【法の支配 法に崩された】法を作る側の権力者自身も縛り、基本的人権、表現の自由を守らせるのが、法の支配。一方、法による支配は権力側が権力の維持と市民への支配を強めるための道具として法律を作り、反対意見やデモを力で封じ、市民に服従を強いる。似ているようでまったく違う。

 かつては規制や抑圧の大義名分は「国体」だった。日本は天皇を中心とした国家で、国民は国家への忠誠心を持ち天皇に身を捧げるのが当然とする国家観だ。今では国家統制に国体を持ち出すことは考えにくいが、「公共の福祉」や「民主主義」を大義名分に、権力者が集団・結社の取り締まりに利用することもあると歴史学者は指摘する。

 1/5【絡み取られた自発性】両大戦の戦間期から45年の敗戦にかけて、女性たちが活動の母体としたのは3種類ある。銃後活動を目的に発会し、政府や軍と一体で働いた体制的団体。公娼制度廃止や婦選実現など女性の地位向上を訴えた市民的団体。労働者ら無産階級の立場に立つ無産団体。日中戦争が始まる頃から従来の活動は縮小。弾圧され消滅、自ら解散、体制に協力しながら存続(市川房枝の選択)、といった道を選ぶことになった。

  

 1/6【歴史を物語るということ】司馬遼太郎は生前「坂の上の雲」の映像化を断っていたという。歴史を物語る難しさも司馬は感じていた。国民を束ねる記憶を国家は作りたがる。多様な歴史のなかには、史実を意図的に塗り替える歴史修正主義が潜む。私たちはどのように物語を紡げば良いのか。確からしい記憶がいくつもあり、自由に語り合い、少しずつ「より確からしい」歴史を見つけてゆく。その積み重ねが歴史を修正しようとする悪意を見破り、記憶の紛争も減らしていくだろう。

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*未来への歴史

2025年01月09日 | 捨て猫の独り言

 新聞連載の「未来への歴史」の今回のテーマは「デモクラシーと戦争」である。暮れから年始にかけての6日間に1面と2面に大々的に掲載された。民主政治は持続可能なのか。戦争は制御できるのか。両者の関係を戦後80年の節目に考えるとある。読み通すにはちょっとした根気のいる作業だった。毎回の【筆頭見出し】と、私が傍線つけた部分を記すことにする。

   

 12/30【政党政治は希望か落とし穴か】社会は移民問題などをめぐり分断し、経済はロシアのウクライナ侵攻によるエネルギー価格高騰などで停滞する。問題を解決できない既成政党への失望。それが政治的暴力が続く背景にある。歴史学者は「現代では、不安を抱えた既成勢力が中道で身を寄せ合った時、左右の極にあるポピュリズムが輝いて見える」と語る。

 12/31【膨らむ借金 許した先は】借金が雪だるま式に膨らむのを抑えようと、歳出カットと増税を唱える財務省は、経済低迷の責任を問われ、批判の矢面に立たされている。戦前の大蔵省批判を振り返ると、その論理と財政の状況は今と酷似している。今の積極財政の中身は、主に国民への現金給付や半導体への補助金などで、軍事予算が中心だった戦前とは違う。自衛官が暴走し、政治を支配しているわけでもない。ただ、財政規律が崩壊するなかで、たがが外れて防衛予算が膨張する恐れがある。

 1/3【開戦「勢い」に流されて】昭和天皇は終戦後、側近に「戦争を止めようと思ってもどうしても勢に引きづられて了った」との発言を繰り返した。政治学者の丸山真男は「つぎつぎになりゆくいきほひ」というのは「日本の歴史意識の古層をなし、しかもその後の歴史の展開を通じて執拗な持続低音としてひびき続けてきた思惟様式」と説いた。 〈次回へ〉

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*総統演説の波紋

2025年01月06日 | 台湾のこと

 2024年(民国113年)の冒頭1月13日に行われた中華民国総統選挙では与党・民主進歩党の頼清徳(ライチントー)が最大野党・中国国民党や第三勢力・台湾民衆党を破り初当選した。民進党が3期連続で政権を担うことになった。1911年の辛亥革命により孫文は「中国革命の父」と呼ばれる。中華民国では中国最初の共和制の創始者として長らく国父と呼ばれ、近年は中華人民共和国でも「近代革命先行者」として再評価が進んでいるという。

 台湾は45年まで日本に統治されたが、日本の敗戦後、戦勝国となった中華民国に組み込まれた。その中華民国の政権を握っていたのは国民党だ。しかし中国共産党との内戦に敗れて台湾に逃れる。49年に台湾に中央政権を移した国民党は一党独裁体制を取った。それに抵抗する形で生まれたのが民進党だ。「中華民国台湾」という表現を用いた蔡英文前総統はその起点を49年に置いており「113年」の歴史に触れたこともなかった。

 暮れに「台湾海峡のキーパーソン・台湾総統・頼清徳」という4回連続の記事が掲載された。その頼総統が辛亥革命を記念する10月10日の「双十節」の演説で「中華民国113歳、誕生日おめでとう!お隣りの中華人民共和国は75歳を迎えたばかりだ。年齢からいえば中華人民共和国(中国)は中華民国(台湾)の人々の祖国にはなりえない」と声をあげると、会場がざわめき波紋が広がった。この演説の後、中国は台湾を包囲する大規模な軍事演習を開始。一方民進党のある老幹部は「まるで中国や国民党の歴史観だ」と不快感を口にした。

  

 頼氏のこの演説のねらいは何であったのか。立法院で民進党は過半数割れの少数与党だ。弱い総統である頼氏は少なくとも国家安全の問題については与野党が一致して対応すべきだと考えている。国民党が政権を握った中華民国が中国本土に拠点を置いた12~49年の歴史も否定しなかった。支持者の反発を覚悟してでも、4年後の選挙に向けて支持層の拡大を図ろうとする狙いは明らかだ。これは理念型と思われていた頼氏が実際には現実主義の戦略的な政治家であることを示すものだろう。

 

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