徒然草40段の「栗しか食わない娘」の話を、小林秀雄が「これは珍談ではない、徒然なる心がどんなに沢山な事を感じ、どんなに沢山のこ事を言わずに我慢したか」と取り上げて以来有名になった。しかし、いまだに小林の真意を計りかねているのが世の実情のようだ。先日の放送大学の島内裕子氏の講演に出かけたのも、40段についてなにか言及があるかもしれないという期待が私にあった。
連続読みの島内氏は『「書物の世界」から「人の中」へ』という項立てをして、40段を小林が41段を芭蕉が取り上げているという事実を紹介するにとどまっていた。講演後に設けられた質問タイムに、私は手を上げることができなかった。テーマ読みの「すらすら読める徒然草」の中野孝次は、「世俗譚」としての六つの段の一つに40段を取り上げている。
「たしかにこの入道の心を想像していると小林の言葉ももっともだという気がしてくる。しかし本当のところは、わたしにはわからない。ただ話としていかにも面白いと思うだけだ」と述べている。中野は兼好の文章の力を「叙述のリズム、力強さ、印象の深さ、ただもう舌を巻く巧さだ」と高く評価する。六つの段に入れなかった41段「加茂の競べ馬を見侍りしに」ついては「理屈がちでそれほど面白くない。これは若い時に書いたのかもしれない」と付け加えている。
私はネットで出会ったつぎの見解に心が動いた。「それがどんなに他の人から見たら異様な事であっても、信じるものは信じるという、そのままの生き方やあり方の態度は、それ自体で美しい筈であると小林は言いたいのです」 ところで年譜によると小林が「徒然草」を発表したのは、ハワイ真珠湾奇襲攻撃の翌年の昭和17年である。昭和16年には、この年より古美術に親しむとある。