「石に枕し流れに漱(くちすす)ぐ」というのは俗世間から離れて自然に親しみ隠遁生活を送るという例えだ。これを「石に漱ぎ流れに枕す」というのは負け惜しみが強く、屁理屈をつけて自分の間違いを正当化する例えだ。「石に漱ぐのは歯を磨いて丈夫にするため。流れに枕するのは俗事を聞いた耳を洗うため」と言ってこじつけた故事によるそうだ。
このように前後をひっくり返して注意を喚起するような機知に富んだ表現がある。「みんなは食べるために生きているけれど、僕は生きるために食べている」というソクラテスの言葉は有名だ。「私が言葉を語る」と「言葉が私を語る」の後者の方は味わいがある。こんな歌もある。「いつかふたりになるためのひとり やがてひとりになるためのふたり(浅井和代)」
「親の心子知らず」と「子の心親知らず」は両方のケースがありうる。欠点だらけだが中には良いところもあるのが「瑕(きず)に玉」で、申し分ないが少し欠点があって惜しまれるのが「玉に瑕」である。「知る者は言わず」と「言う者は知らず」この二つはたしかに異なる状況だ。「思し召しより米の飯」や「心もちより 搗(つ)いた餅」や「情けの酒より 酒屋の酒」などはひっくり返すと価値観が変わる。(フキタンポポとクロッカス)
ひっくり返しても意味が変わらないものもある。「苦あれば楽あり」「健全なる精神は健全なる身体に宿る」「色足是空」。ことば遊びと言えば思い出す詩がある。 「海よ僕らの使う文字では、お前の中に母がいる。そして母よ、仏蘭西人の言葉では、あなたの中に海がある」という三好達治の詩だ。mere(母)とmer(海)でどちらもメールと発語する。さて「ダメでもともと」と「もともとダメで」のような、思わず笑みがこぼれるようなものはないか、捜しているのだがまだ見つからない。