ちくま新書「無宗教からの歎異抄読解」を読んだ。著者の阿満利麿(あまとしまろ)は1939年に京都の西本願寺の末寺に生まれた宗教学者である。これまでの歎異抄関連の中では、もっとも親しみやすい本だった。これからは日本各地の墓所で目にする「南無阿弥陀仏」や「俱会一処」の文字が、これまでとは違った印象で私に迫ってくるだろう。
まず著者のつぎの表明に共感を覚えた。「歎異抄を読んでゆく際に、どこまでが日常的なものの考え方感じ方で十分に理解できるのか、どこから、あるいはどのような理由で常識とは異なる宗教的論理を受け入れなければならないのかをはっきりさせることだろう。いってみれば常識から宗教への飛躍のポイントを明らかにすることが必要になってくる。本書の力量が試される点でもある」
道徳の尊重は善悪をわきまえた、しっかりした自己の確立を前提とする。それに比べると、宗教は自己の危うさや自己の矛盾から出発する。道徳に敗れ道徳で立ち行かなくなったところから宗教ははじまる。法然の仏教を受け入れるうえで立ちはだかる壁は、まず第一に自分が「凡夫」だという認識をどこまで認めることができるか。第二はなぜ阿弥陀仏の誓いが絶対的な救済の道となるのかを、心底から納得できるかどうかという点にあろう。
子どもは「お母さん」というだけで母を実感できる。言葉には存在を呼び起こす機能がある。阿弥陀仏とは無数の人々が願い続けてきた人類の願いの結晶であり、そのシンボルなのである。本願念仏は自らの救済を願う心から出発する。人は自らの成仏を求めて阿弥陀仏の名を称するのである。凡夫成仏という事業を完成するためには、凡夫にわが名を称するという行為を実践してもらわねばならない。「我にまかせよ。かならずあなたを救う」