玉川上水の辺りでハナミズキと共に

春は花 夏ほととぎす 秋は月 冬雪さえてすずしかりけり (道元)

79)南太平洋上の3諸島

2006年11月11日 | ピースボート世界一周

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 11月12日夜チリを出航し日本まで1ケ月を残すのみとなった。大陸を離れ南太平洋の島(イースター島、タヒチ、フィジー、パプアニューギニア)に寄港することになる。そこでBoat側と旅行社が3つに区分された島々の歴史などのレクを行った。(島の玄関、港に居並び島を守っているとされるモアイ像)

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 一番大きなポリネシア(多数の島々に意)は、チリに属しモアイで有名なイースター島、フランスに属するタヒチ、ニュージーランドを含んでいた。メラネシア(黒い島々の意)はフィジー、パプニューギニアが含まれていて確かに肌の色は黒かった。訪問はしなかったが面積の広いミクロネシアの(小さい島々の意)3諸島であった。広い洋上にあるこれらの国々は西洋諸国や日本の植民地支配の歴史、多民族社会の困難、核実験の被災など苦悩を抱えている事を学ばされた。(ゴーギャン美術館。残念ながら本物は一つもないという すべてレプリカ)

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 船友の一人が核実験は決して白人の住む界隈では行われなかった。決まって有色人種の住む南太平洋上だった。これ以上明らかな差別はないと同類である日本人の立場で怒っていた。(フィジー古来の生活、文化、ダンスを紹介するための村が山の中腹に作られていた。常時そこに住んでいるのではないが、バンガローなど宿泊施設もできていた)

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 太平洋に於ける核実験はアメリカ107回。イギリス21回。フランス199回と300回にも及んでいるという。そこで当然のこととして「反核ナショナリズム」が起きている。ごく一部ながら1986年制定のミクロネシア連邦の憲法前文を抜粋すると「平和と調和のうちに共に生き、過去の伝統を守り、未来への約束を果たすべき共通の願望をここに確認する。我々は先住者を押しのけてここに住んだのではない。戦争を知るがゆえに平和を願い、分割されたがゆえに統一を望み、支配されたがゆえに自由を希求する。平和・友好・協力・人間愛を全ての国に広げたい」と全文を紹介したいほどにいい文章だ。(メラニアア諸島に属するフィジーの子供達)

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 通り一遍のレクではあったが多くのことを学ばされた。各寄港地ではいつも以上に心に沁みるものがあった。とりわけ最後の訪問地ラバウルは事前学習の段階から囚われていたのだが、風化を待つばかりのような戦闘機の残骸とは反対に、錨につながれたような思いが今も尾をひいている。(触ると崩れ落ちそうな残骸)

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78)隣人による殺戮の惨

2006年11月08日 | ピースボート世界一周

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 「メディアが人を殺す時」と題して、チリから乗船してきたBoatのスタッフがビデオを映しレクチャーをした。彼は1973年生まれの33才。ルワンダに於けるフツ族とツチ族間の大虐殺は私にも遠い所でのnewsとして記憶されていたのだが、12年前の事件だから古い話ではない。’94年春から夏にかけておよそ100日間で、10人に1人の割で80万人が殺され、ホロコーストの3倍、広島長崎の原爆以来の効率的な虐殺といわれている。(講師の高橋氏)

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 ルワンダは元々農耕を主とする多数派のフツ族の土地に、牧畜を主とする少数派のツチ族が進入して出来た国家であった。以来他民族の駆逐のため小競り合いもあったが同一言語、文化、宗教、混血化も進んでいた。しかし富のシンボルとされる牛を持つツチの方が農耕民族のフツより優勢であった。第一次世界大戦の前はドイツに、大戦後はベルギーの植民地となった。それらの国は身体的な特徴からツチ族をよりヨーロッパ人に近い「高貴」、フツ族を「野蛮人」と蔑視し、対立をあおり「民族の証明書」などを発行してフツを封じ込めようとした。

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 ところが’62年には少数派のツチ族を中心とした国家が独立して以来立場が逆転した。ツチ族はベルギーと距離を置き権力を維持しようとしたが、独立以来ツチ族に支配されてきたフツ族がベルギーの支援を得て’73年クーデターを起こした。ツチ族はウガンダに拠点を移しルワンダ愛国戦線を組織し反政府運動を開始し、'90年には内戦も勃発したが、国際世論に押されて'93年に和平合意をした。(職員による出し物 おてもやん)

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 そんな折’94年フツ族の大統領の乗った飛行機が撃墜されて内戦は再燃した。ルワンダで唯一のメディアであった「千の丘ラジオ」がツチ族過激派の仕業だと断定して放送し煽動したのだ。ラジオはツチ族を異民族として意識させツチ族の人々を「ゴキブリ」と呼んで蔑んだ。積年の恨みから煽動に乗じて、市民は手に手に鍬やナタ、鎌を持ち隣人や親戚のツチ族を見つけ次第次々と虐殺を繰り返したのだ。

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 世界中を震撼させたのはこの大量虐殺は軍隊ではなく、隣人同士が行ったことであった。今回の講座は「虐殺は民族の対立を利用したメディアの犯罪」として取り上げられた。元アナウンサーは「千の丘ラジオは武器だった。刀ではなく言葉で人を殺した」と語っている。私達も戦時中同じような経験をした。イヤ平時の今も、日々の暮らしの中でメディアに引きずられそうになるまいと思うのは私だけではないだろう。(いずれもフィジアンの村との文化交流。上は土地の人にネックレスや冠の作り方を教わる。下は村へ向かうバスの中)

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抑圧からの解放

2006年11月06日 | 捨て猫の独り言

 高校必修科目の履修漏れで01年に広島で02年に兵庫で元職を含む校長と県教委幹部が処分を受けたことなど知らなかった。私のところでは受験のためだけに高校の勉強があるわけではないという方針でやっている。受験に対応したカリキュラムを望む一部の欲求を頑なに押し止めてきた。学習指導要領が約一割の高校で守られていないことなど高校現場では常識に属する。だから今回の大騒ぎはなぜという思いが強い。仕掛け人は誰か。

 ベテラン教師が最近の生徒の計算力のなさを嘆いていた。中一の代数を担当しているが同じミスを何度も繰り返すという。プロ野球日本一の日ハムのヒルマン監督の口真似で 「シンジラレナ~イ」 と言い残して教室を出てきた。そしてつぎの授業では怒りの宿題だとプリントの束をしごいていた。生徒がそのプリントを見たら今度は生徒が 「シンジラレナ~イ」 という番だねと私が言うとその教師はクックックッと笑いをこらえていた。

 日本の生徒の学力低下は本当か。私はそれほど悲観していない。自分の怠惰な大学生活を顧みてトータルでは今も昔も同じようなものではないか。アメリカの大学初年生と日本の学生と比べてみる。アメリカの方が知識量でははるかに劣っている。しかし論理的に考えて表現し行動することにかけては充分な訓練を受けているから論争になったりした場合には日本の学生はとてもかなわない。そんな反省からゆとり教育が導入されたのではないか。討論や小論文重視などまだ始まったばかりである。

 日本人の多くは学校に何か息苦しさを感じている。しかしそのような抑圧からの解放も一気に成就されるものでもない。例えば家の抑圧から解放されて核家族になって老人が孤独に生きねばならなくなったように何らかの副作用も出てくる。私は抑圧の側にいる。受験科目だけを教えよという欲求などを 「学力の値切り」 と私は呼んでいる。解放の過渡期において生徒はどのように現象するのか興味はつきない。ここ2年ほどのことだが学校で生徒からさん付けで呼ばれた。まだ数は多くはない。友達感覚で接したいのであろう。マナーが悪く教師は授業以外のことで疲れることが多くなった。これらは無意識下の値切りと思う。

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77)博物館は詩人の館

2006年11月04日 | ピースボート世界一周

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 スペイン人の征服者達が始めてこの地を訪れたのは1563年。彼らはその美しさを称え、「天国のような谷」という意味の名称を与えたといわれるチリのパルパライソ。19世紀頃の面影を留める旧市街は世界遺産に指定され、湾を囲むように丘陵地帯が広がっていた。

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 丘を登りきると、この地を愛しノーベル文学賞を受賞したパブロ・ネルーダの過ごした館が博物館として一般公開されていた。特別な陳列物はなかったが、詩人が生活していた素敵な館は私を興奮させた。注意事項は2点。触ってはいけない。室内の写真撮影はしてはいけないだった。写真を盗み取ろうにもアチコチに職員がいるのだ。屋外を写すフリをして広角で撮ろうとするとXサインがでる。そんな訳でヤット盗み撮ったのが、部屋の隅にあった風呂場のみであった。(館の外観 丘陵に建っているので室内からの見晴らしは抜群)

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 リビングのテーブルにしつらえられたランチョマット。その上に置かれたプレートやナイフ、フォーク、スプーン。おそらく静かな音楽が流れ、暖かい陽射しが射し込み、窓ガラス越しに家並みや港の風景を眺め、食事を楽しみ、思索にふけったのではなかったろうか。

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 盗写したい。何故?実は私の長年に亘る趣味は家の設計図を見たり、書いたりする事なのだ。図書館で本を借りると5冊のうち1冊は必ず「家の設計」の本が入る。本の一角に「設計図を作って」と題して、Peace_boat_811 設計図に入れたい条件が明記されている。それに基づいて設計士が製図しているが、素人ながら私もそんな事が好きなのだ。(屋外撮影はOK 室内を入れるのはこの程度が限界)

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 館を出て丘の縁まで歩いていたら、結婚式を挙げたばかりのカップルが写真を撮ってもらっていた。本人達の笑顔ははじけ、周りの祝っている人々も微笑んでいる。彼らはどんな家に住むのだろうか?Peace_boat171 その家でどんな家庭を築こうとしているのだろうか?遥か彼方日本では・・未だ我が娘は極楽トンボを楽しんでいる・・・のだろうか?(丘の上の新婚さん。停泊中の白い船舶が私達のBoat。日付けが変わる頃船は出港した。穏やかなオレンジ一色に近いネオンは、チカチカと忙しくと点滅することもなく丘の稜線までクッキリ描き出しており、見えなくなるまで私達を楽しませてくれた)

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