・・・・・・あわぞうの覗き穴・・・・・・

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具体的に

2010年08月19日 | なんだいまあ(何だこりゃが念仏になった)
「具体的に」という注文語を、私は好かない。
その前に、「具体的」という言葉がおよそ嫌いなのだ。
この言葉は半分うその要素も持っていて、それを、ところ構わず得意顔で使われると、何か嫌な感じがするからである。

人にものをたずねるとき「具体的に話してください」と注文をつけているのを、TVのインタビューなどでよく見かける。実に嫌な注文のし方だ。
こういうTPOをわきまえない注文のし方は聞いていて気分が悪い。
(注)ここでのTPOは、Think, Position, and Occasion 特にPに注目

考えなく使っている人は、そう聞くのがなぜ悪い、私はディレクターに具体的に聞き出して欲しいと要求されているのだ、と言うかも知れない。
しかし、その要求は、ディレクターからキャスターに対しての要求で、キャスターからコメンテイターにそれをそのまま持っていったのでは、学生の宿題丸投げと同類ではないか。
なぜ丸投げかというと、「具体的に」と要求する言葉は、そこですでに抽象的要求になってしまっているからだ。
自分から具体的行動をせずに、ひとにだけそれを要求するというのは、いかにも手前勝手なのだ。具体的なことを聞き出したければ、具体的な質問をしなければならないだろう。
それには、聞き出そうとすることについて、前もっていろいろ調べ、聞くことを用意して置かなければならない。
ディレクターは、本当はそのことを望んでいて、視聴者もそういうインタビューを期待しているのだと思う。
その期待にこたえる努力をせず、形だけ取り繕うことを考える。それが「具体的に話してください」という丸投げ質問になって現れる。
努力なしに良さそうに見える結果だけ出そうとする、お手軽インタビューがなさけないのだ。

具体的な表し方というと、まず数値表現に走る。
数値やグラフを出されると、つい本当かと思ってしまう。わかったような気にさせられる。そこが怪しいのだ。

わかるためには、具体性があった方が便利だ。
だが、便利だというだけのことで、良いか悪いかは別のこと。そのあたりを取り違えると、具体性は善、抽象性は悪、非具体性は悪、わかりにくいことは何でも悪と思い込む「具体性希求症候群」に罹ってしまう。
もし、わかりにくいことが悪であるとしたら、政治、経済という仕事はみな悪で、またそれに携わっている人はみな悪人になってしまうではないか。
政治、経済は本来わかりにくいものなのに。

数値やグラフの代表用途はアンケートである。
アンケートは、ある傾向の答えが欲しいと思えば、誘導によって希望どおりのデータが仕上がる、便利重宝なシステムだ。
数値のうそなどと、もっともらしい説を見かけることもあるが、うそではない、数値は正常に集計すれば常に本当なのだ。冒頭に半分うそと言ったのは、本当の顔をしたうそが紛れ込んでいるからだ。
集計上のごまかしなどは論外のことで、そんなものはデータとはいえないから、勘定のうちに入らない。
データが、取られた条件に対しては、すべて本当であるから始末が悪い。
ものごとをわからなくする術は、設問の段階で使われる。問いかけのときそれは既に過去完了なのである。

眼鏡はいつも拭いていないと、はっきり見えない。ワンデイアキュビューどころかランタイムアキュビューでなければ、ものごとはしっかり見えないのだ。