あるきっかけから、高校教科書に最も多く採用されているという漱石の「こころ」を読み直してみた。
読み直しと言っても、記憶にあったのは書名だけなので、始めて読んだのと変わりない。
買って読む元気もないので、図書館から3冊借りてきた。なぜ3冊も、という理由から始めることにする。
転居前、私は図書館から本を借りる場合、ネットで検索し予約しておき、メールで通知が来たら借りに行く、という方法をとっていた。
漱石の「こころ」を検索すると、ぞろぞろ出てきた。文字の小さい文庫本を避け、全集ならよかろうと、平凡社の「世界名作全集」から選んで予約した。
通知が来てとりに行くとき、受け取るだけならと眼鏡を持たずに行った。
「これでよろしいですか」と言われて背文字を見たが、はっきり見えない。
「目が悪いので」と言いながら眉をひそめて見ていると、「ここにもあったのですが」と係の人のことば、他の図書館からも運んでくれてあったのだ。
借りて帰ってよく見ると、「ここにもあったのですが」と遠慮がちだったことばの意味に気付いた。
全集といっても、字は7Pと8Pの間の6号ぐらい、版の大きさは文庫並み、昭和34年の版で紙もだいぶ焼けている。
これはだめだと、別の日に図書館まで出かけて行ってまた探した。
あるある、4~5種類もあったか、しかし、文字が大きくいちばん読みやすい、ほるぷ出版の全集には「こころ」がない。
仕方なく角川の「日本近代文学大系」から借り出した。
これは、字は10Pぐらいでまあまあだが、全部の漢字にふりがながついている。「私が愈立とう」に「わたくし いよいよた」とおまけがつく。そういうところは字間をわざわざ広げなければおさまらない。その一方では行間に余裕がないなど、目がちらちらしてまことに読みにくいものなのである。
これもだめだと、もう一度ネットで書名と出版社を条件にして検索、ようよう、ほるぷの「日本の文学」に入っているのを借りることができた。
10Pより大きい5号活字で、行送りも8ミリ以上、これは読みやすい。
新刊でその版しかないもの以外は、やはり現物を確かめてから買ったり借りたりした方がよい、とあらためて思った。
さて、この本は、シールを見ると、なんと児童図書館の蔵書になっている。
三角関係の果てに自殺で終わる本が、なぜ児童図書なのか、また国語の教科書に載るのか、理解に苦しむところだ。
蔵書の場や掲載を決めるときに、書名と著者しか気にしなかったのだろう。
それはともかく、中身の感想をひとこと言わなければ話にならないので、本題に入る。
暮らしの中で、余計なことは知りたがらない、余分なことは話さない、これが普通の人間のこころのように思っていた。
知って欲しくないことを打ち明けてしまうには、命と引き換えの覚悟がいることさえある。一方、知ってどうするというようなことを、無闇に知りたがる人もあちこちにいる。そんなことが書かれている。
たしかに、それが世の常であったように思う。
しかし、前世紀の終わりごろには、情報化という化け物のお陰で、知りたい、聞きたいという身勝手な欲望のままに、キリやノミで相手のことを考えずに突っつき散らす人が増えてきた。そして、自分の欲望がある程度満たされると、コミュニケーションがはかれたなどと得意顔になる。
こころのうちを解かるまでに至らず、知ったつもりになるだけでも、発掘研究者のような執念がなければできないことだ。
また、こころのうちの最もだいじなところを知らしめ理解させようとするには、ヌーディストに宗旨替えするような勇気がいるだろう。
心の病をもっていて気の毒な状態にある、あるいは人に危害を加える心配がある、そんな人のことでないならば、お互いにもう少しさらっと、しかも広く付き合うようにすれば、世の中もっと住みやすくなるだろうと、あらためて感じた。
読み直しと言っても、記憶にあったのは書名だけなので、始めて読んだのと変わりない。
買って読む元気もないので、図書館から3冊借りてきた。なぜ3冊も、という理由から始めることにする。
転居前、私は図書館から本を借りる場合、ネットで検索し予約しておき、メールで通知が来たら借りに行く、という方法をとっていた。
漱石の「こころ」を検索すると、ぞろぞろ出てきた。文字の小さい文庫本を避け、全集ならよかろうと、平凡社の「世界名作全集」から選んで予約した。
通知が来てとりに行くとき、受け取るだけならと眼鏡を持たずに行った。
「これでよろしいですか」と言われて背文字を見たが、はっきり見えない。
「目が悪いので」と言いながら眉をひそめて見ていると、「ここにもあったのですが」と係の人のことば、他の図書館からも運んでくれてあったのだ。
借りて帰ってよく見ると、「ここにもあったのですが」と遠慮がちだったことばの意味に気付いた。
全集といっても、字は7Pと8Pの間の6号ぐらい、版の大きさは文庫並み、昭和34年の版で紙もだいぶ焼けている。
これはだめだと、別の日に図書館まで出かけて行ってまた探した。
あるある、4~5種類もあったか、しかし、文字が大きくいちばん読みやすい、ほるぷ出版の全集には「こころ」がない。
仕方なく角川の「日本近代文学大系」から借り出した。
これは、字は10Pぐらいでまあまあだが、全部の漢字にふりがながついている。「私が愈立とう」に「わたくし いよいよた」とおまけがつく。そういうところは字間をわざわざ広げなければおさまらない。その一方では行間に余裕がないなど、目がちらちらしてまことに読みにくいものなのである。
これもだめだと、もう一度ネットで書名と出版社を条件にして検索、ようよう、ほるぷの「日本の文学」に入っているのを借りることができた。
10Pより大きい5号活字で、行送りも8ミリ以上、これは読みやすい。
新刊でその版しかないもの以外は、やはり現物を確かめてから買ったり借りたりした方がよい、とあらためて思った。
さて、この本は、シールを見ると、なんと児童図書館の蔵書になっている。
三角関係の果てに自殺で終わる本が、なぜ児童図書なのか、また国語の教科書に載るのか、理解に苦しむところだ。
蔵書の場や掲載を決めるときに、書名と著者しか気にしなかったのだろう。
それはともかく、中身の感想をひとこと言わなければ話にならないので、本題に入る。
暮らしの中で、余計なことは知りたがらない、余分なことは話さない、これが普通の人間のこころのように思っていた。
知って欲しくないことを打ち明けてしまうには、命と引き換えの覚悟がいることさえある。一方、知ってどうするというようなことを、無闇に知りたがる人もあちこちにいる。そんなことが書かれている。
たしかに、それが世の常であったように思う。
しかし、前世紀の終わりごろには、情報化という化け物のお陰で、知りたい、聞きたいという身勝手な欲望のままに、キリやノミで相手のことを考えずに突っつき散らす人が増えてきた。そして、自分の欲望がある程度満たされると、コミュニケーションがはかれたなどと得意顔になる。
こころのうちを解かるまでに至らず、知ったつもりになるだけでも、発掘研究者のような執念がなければできないことだ。
また、こころのうちの最もだいじなところを知らしめ理解させようとするには、ヌーディストに宗旨替えするような勇気がいるだろう。
心の病をもっていて気の毒な状態にある、あるいは人に危害を加える心配がある、そんな人のことでないならば、お互いにもう少しさらっと、しかも広く付き合うようにすれば、世の中もっと住みやすくなるだろうと、あらためて感じた。