・・・・・・あわぞうの覗き穴・・・・・・

気が向いたときに、覗いてご覧ください。
何が見えるかは、覗く方々のお眼め次第です。

世界の非常識

2010年08月16日 | なんだいまあ(何だこりゃが念仏になった)
日本の常識は、世界の非常識。
もう引退されたのか、顔を見せなくなったが、TV、ラジオでおなじみだったT氏が、自分の造語だとわざわざ断りながらよく使っていた言葉である。

世界の常識は優れているものであるから、それに倣った方がよいというときに使われていた。
だが、世界の常識というものは、果たしてだんだん優れたものになっていくのか。
気に入らない奴は力でねじ伏せて常識に従わせ、皆がそうだそうだと一致協力していけば、結果はどういうことになるか。
人間の心は、あるがままにさせておけば、だんだん良い方に向かうか、悪い方に向かうか、どちらだろう。
ときどき浄化していかなければ、ひとりでに良い方には決して向かわない。空き家に埃がたまり、腐ってくるのと同じことなのである。
いま、世界中で行われているいろいろな活動には、人間の心を浄化する効果のあることがどのくらいあるのだろうか。
皆無とは言わないが、割合からすればごくわずかではないかと思う。
毎日のニュースで伝えられるできごとをみればすぐにわかる。
ああこれは素晴らしいと思うことでも、突き詰めてみると、どこかに名誉、名声、利得、利権の臭いがする。
名誉を望むのは悪いことではないにしても、それが目的化されれば、心の浄化と逆方向に影響がひろがっていく。
そういうことが積み重なって、世界の常識が形成されていく。
常識の程度が、だんだん悪くなる方に向かっているとき、あえてそれに従っていこうとするのは、わが国に生活の根拠をおく人びとにとって、果たして幸せを招き入れることになるのだろうか。

常識は、永い年月を経て、だんだん皆がそうだと思うようになってくるものなのだ。
海外買い物旅行で手に入れてきたもので日々の衣替えをするように、はい今日はこちらにしましょう、似合うかしらなどと、ちゃらちゃら取り替えるようにはいかないものだと思うが、どうだろうか。
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オールドファッション

2010年08月15日 | なんだいまあ(何だこりゃが念仏になった)
論理と修辞を統合した文章作法を編み出したい、そしてそれを教え広めたいと唱える人がいる。
はて、そんなことができるのか、と考えてみた。

論理とは、正しい思考の形式、法則、思考の法則的なつながり、推論の仕方、論証の筋道ぐらいで説明がつくだろう。
しかし、こういう抽象的なことを指す言葉の説明は、食べ物の味の説明のようなもので、文字ですっかりあらわしきれるものではない。
それが証拠に、料理番組、グルメ番組などで口をもごもごやっている人から、適確な味の表現を聞いたことがない。食べてみなければ味はわからないのだ。
だから、論理とは何かなどと言って、いろいろ言葉を並べてみても、とことんわかるような説明などできるものではない。
文字を並べる方法では、これぐらいで説明がつくだろう程度のことしか言えないということになる。

では、修辞とはどういうことだろうか。
それは、修飾的な言葉を巧く適切に使って表現すること、言葉を上手に飾って、言葉の上だけでも表現対象が良いもの優れたものに見えるようにすること、言葉を読んだり聴いたりした人に、感動を与えるように、ある考えを有効に表現すること、ぐらいで説明がつくだろうか。
言えることは、修辞には、よく見せようという心が根底にあるということだろう。あることをこき下ろす手段をさして、修辞とは呼ばないだろうから。

ものごとを表現するとき、あるときは論理的に、あるときは修辞的にということはよく用いられる方法だと思う。
しかし、論理的、且つ修辞的などということができるだろうか。
そういう方法をとってみたいと考えるのは、論理では太刀打ちできない、あるいは受け容れられ難いから、別の表現方法で行こうというときではないかと思う。
よく言えば上手な話し方、悪く言えば口先でごまかすやり方ではないだろうか。
きれいな色や、甘い味のついた、形の良いものや、のどを通りやすいカプセルに包み込んだものにも、うっかり噛んだら大変だという苦い薬もある。正露丸糖衣のように。
だから、論理と修辞の合体も考えられなくはないが、薬は薬、カプセルはカプセルなのだ。一粒にまとまって一緒に口には入っても、薬とカプセルはやはり違うもの、統合も統一もされていない、組み合わさっているだけの状態なのである。

論理と修辞の統合などと、もっともらしい方法を編み出して、口当たりのよさを望む若い人に勧めれば、短期的には受け容れられるだろう。しかし、長持ちはすまい。
和風四川料理のようなもの、あるいは道徳的誘惑法のようなことは、一風変わった面白みがあっても、うその皮はすぐはがれる。
しかし、今ごろになって気が付けば、それに似た論法、舌鋒、文章作法は、決して新しい方法ではなく、既に永田町あたりの紳士方が、とうの昔に愛用し、むしろ脱がせ難いオールドファッションとして定着してしまっているではないか。
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ところ番地

2010年08月14日 | なんだいまあ(何だこりゃが念仏になった)
むかし一丁目一番地という連続TVドラマがあった。
あたたかい近所付き合いを描いた感じのよいドラマで、出演していた娘役は、後にそろって大女優になった。

一丁目一番地は、その地の中心になるところ、皇居や国会も「一丁目一番地」だろうかと、ブログに書いた方がおられて、googleマップをたどってみた。

千代田区永田町一丁目一番地にあるのは憲政記念館、国会議事堂は永田町一丁目七番地だ。
皇居一帯は千代田区千代田一丁目一番地、あそこに番地などいらないではないかと思うのだが、宮内庁病院、皇宮警察などがあって、ルールに沿った帳簿上必要というだけで番地を置きたかったのか。

どうでもよいことはルールに従って決められるが、あって欲しいことでもルールがなければ決められずに、ずるずる棚上げになる。
法治国家の国民は、あるときにはルールに基づいて行動を強いられ、あるときにはルールがないからと放置され苦民となる。

国民という言葉が嫌いなのか、総理の発音がクミンと聞こえた。
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贋と偽

2010年08月13日 | なんだいまあ(何だこりゃが念仏になった)
贋作、鴈説というのはある。
ニセ札のニセの字は偽だ。
ギマンは欺瞞で偽瞞とは書かない。
贋瞞ガンマンというのもない。

さて贋と偽、どちらが品がよいだろうか?
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喜びと楽しみ

2010年08月12日 | なんだいまあ(何だこりゃが念仏になった)
電車の中に調理学校のポスターが貼ってある。
「つくるよろこび 食べるたのしさ」と書いてある。
逆にするとどうなるかなと、ふと思った。

料理を楽しいと思う人はいても、喜んでするだろうか。
料理というものは、だいたい面倒で辛いものなのに。
口に合ったものが食べられて喜ぶ人はいても、食べながら楽しむ人はいるのだろうか。
自分の作ったものなど食べるときに楽しいだろうか。

それぞれ実感とわずかながらどこかが違うような気がする。
「微妙」は「僅差」の意味を含んだ表現だと思うが、近ごろは「やや反意」の言い換えによく使われる。
こういうのこそ微妙な違いと言うのだろう。
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無理に縮めると

2010年08月11日 | なんだいまあ(何だこりゃが念仏になった)
ラジオの交通情報で、「JR京浜東北線のナンコウが遅れています」
この意味がわかるまで何秒かかかった。
いつも薬をそばに置いている人間は、なぜ「軟膏」がここに出てくるのかと考えてしまう。
どうやら南に向かう路線を指しているらしい。
一度わかれば、次に聞いたときまたかと思うだけで意味はすぐわかる。それならいいではないか、と言ってしまえばそれまでなのだが。

交通情報など、すぐ理解して貰わなければならないところに、なぜこんな言葉を使うのか。
字数を少なくすれば洗練された言葉になると思っているのだろうか。あるいは現場用語を放送に使うと臨場感が出ると思ってのことか。
上り下りではあらわしにくいからという理由はわかる。それなら「南向き」か「南に向かう」でよいではないか。
ナンコウを1秒で言ったとすると、ミナミムキと言っても0.25秒、ミナミニムカウと言っても0.75秒ぐらい、たったそれだけしか時間は増えない。

増える時間を余分な時間だと思うから縮めたくなるので、わかり難いところは時間をしっかり使って話してほしい。

あなたの言葉は聞き取り難いと、いつもも文句を言われている爺いの自戒でもある。
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<<おばあさんのアブチエ>>

2010年08月10日 | なんだいまあ(何だこりゃが念仏になった)
自分の行動の結果予測が鈍くなる、これが、おばあさんの危ない知恵袋をつくる。

口の固いビンを、ガスレンジの火の横にかざしておいて温める。
プラスチックの容器を踏み台にする。
箸で窓をこじ開ける。
ひとのすることに、なぜを考えずに何度でも同じ文句を言う。
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エキタン

2010年08月09日 | なんだいまあ(何だこりゃが念仏になった)
「えきたん」はたびたび重宝させていただいている。
指定駅間の経路、乗り換え案内だけでなく、あちこちにある同じ名前の駅を探訪できる。

わが常用沿線に、京急長沢という駅がある。
わざわざ京急と断わるからには、それと同じ名前の駅がどこかにあるはずなので、「えきたん」で調べると京急以外に3箇所もあった。

1. JR陸羽東線  長沢
2. 名鉄名古屋本線 名電長沢
3. 宇部新川 ~ JR小野田線 ~ 長門長沢

1. 山形の新庄から奥羽山脈を抜けて宮城の小牛田までJR陸羽東線が通っている。この線は、奥の細道湯けむりラインと名づけられている。
新庄から南に向かった一つめの南新庄で、並走していた奥羽本線と分かれ、そこから最初の駅が長沢、その次に東長沢駅がある。
長沢と東長沢はさほどの距離でもないが、それぞれ住んでおられる方の便をはかって二つの駅にしたのか、駅ができたからそれぞれに住む人が増えたのか、それはわからない。
鳴子温泉まで1時間かからない、よいところとみた。

2. 豊橋から名古屋の間を国道1号線とほぼ並走し、JR東海道線よりも山側を走っている名鉄名古屋本線がある。
この路線にある長沢駅、社名、線名は名鉄だが、駅名は名電長沢である。
名古屋鉄道の前の社名は名古屋電気鉄道だったので、駅は嫁入りしたのではないから名前は変えずにおこうということだったのかも知れない。
この駅は東名高速道路の音羽蒲郡ICに近い。
そこから三河湾オレンジロード、三河湾スカイラインとつながっている。
三河湾の向こうに渥美半島の望める多分よい眺めなのだろう。

3. ずっと西に行って山口県、もうくたびれた。
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つなぎ

2010年08月08日 | なんだいまあ(何だこりゃが念仏になった)
何日か前、ドラマでない場面を切ってつないでドラマに仕立てる実験が放送された。
出来上がったのは高校生のクラブ活動程度のもの、いや、中学生でもこれぐらいのことならやってのけるかもしれない。

なぜこんなのが放送されるのか。プロデュースへの身の入れ方の問題なのだろう。
やるならもっと身を入れてやればよいのに。

やってみたというだけでは、プロの仕業のうちに入らないではないか。
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2010年08月07日 | なんだいまあ(何だこりゃが念仏になった)
小学生にロボットを描かせると、顔が四角、ずん胴の動きの悪そうな形のものが多い。
ロボットとはこんな形のものというステレオタイプ・イメージができあがり、固定されているのだろうか、

そこへいくとポケモンはみな型が違う。
違いの面白さが人気の秘密らしい。

ことによると、ロボット好きは案外頭が固いのかも。
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ツケかた

2010年08月06日 | なんだいまあ(何だこりゃが念仏になった)
いいがかりは
いいかげんでなく
いいしおどきに
いいことばで
いい気持ちにさせるように
つけるのがよい。
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常識

2010年08月05日 | なんだいまあ(何だこりゃが念仏になった)
相撲の放映権契約は、放映中止でどうなるのだろうか、と場所中に問いかけたら、生中継は中止になったが放映そのものが中止になったわけではない、という答えが返ってきた。

では放映時間はいつになったのかと新聞のTV番組表を見ると、「相撲全取組」とあって夜中の2時半から。
翌日は1時50分からとなっていたが、2時過ぎはひどかろうとひと声あってちょっと繰り上げたのか。やはり夜中は夜中である。
夜中に見る気はしないから放映中止と大して変わりないではないか。

放映権料の通常1場所約5億円が生中継なしで1億円減額という話もあったという。
世界中に見せるから何億円の価値が認められているので、発信もとの国内で夜中に録画放送では4億円もの受け渡しは何を根拠にその額が出たのか。
NHKはすべて通常通り撮影はするのだから、これくらいが常識かというのんきな意見もあった。撮影は撮影、放映権料は映像を残すためのモデル代ではないのに。

最終結果は、相撲協会が放送権料の辞退を申し入れ、NHKが受諾ということになったと報じられたが、当たり前の結果になったと思う。
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言い抜け

2010年08月04日 | なんだいまあ(何だこりゃが念仏になった)
国会中継を見る。
弱り目をつつかれ叩かれするのだからくたびれるとは思うが、確固たる意志の込められてない答弁は聞いていて腹立たしく、あと2時間余りありそうなのだがスイッチを切る。
答弁、答便、言い訳、言い抜け、日本の未来はいつまでも暗そう。
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くもの巣から雲へ

2010年08月03日 | なんだいまあ(何だこりゃが念仏になった)
ネット・ネットと巣を張りめぐらしただけではもの足らず、雲のかなたまで手の届くようにしようというのか、クラウドコンピューティングというサービス形態があらわれた。

いままでのように、データをそれぞれ自分の手元に保管しておいて出し入れや交換をするのでなく、雲の中に投げ込んでおけば、整理、蓄積、管理をやってくれる。
料金がかかるのは当たり前だが、ユーザーは出し入れ口の道具さえあればよいらしい。

データを預けて手間がかからないのはよいけれど、雲の向こうではどんなことが行われていようと関知する手立てはない。雲の中で雷が暴れだしたり、雲そのものが消えてしまわないという保証もない。

私らのように、持っているデータがちっぽけなパソコンに収まる程度の量では、どんな具合か試して見るわけにもいかない。
大型精米機の性能を確かめたいと、5キロの袋に玄米を入れ、こんにちはと訪ねて行っても相手にしてくれないだろう。

こんなことを考えていたら、パソコンのデータより、青雲のけむりにお世話になる日が近づいてくる己が身の始末は用意ができているのかと、雲のかなたから声が聞こえてきた。
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交替

2010年08月02日 | なんだいまあ(何だこりゃが念仏になった)
7月末の夜中、ミンミン蝉の夜鳴きで目が覚める。
明かりを点けたら鳴きやんだ。午前2時だった。

また泣き出した。
こんどは明かりをつけても鳴きやまず、消したらやんだ。午前4時。
その直後愉悦の声、続いて恍惚の声、蝉でもか。そして静かになった。
おかげで7時半まで寝てしまった。

8月になる夜、またも蝉。その声はカナカナだった。
蝉の夜にも月替りの当番制があるのか。
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