南無煩悩大菩薩

今日是好日也

誘惑

2020-03-08 | 古今北東西南の切抜
(gif/source)

こういう話がある。

ある時、山ぞいの二また道を、若い男と若い女とが、どちらも同じ方向をさして歩いていたことがあった。
二また道の間隔は、段々せばめられて、やがて一筋道となった。見ず知らずの二人は、一緒に連立って歩かなければならなくなった。
 
若い男は、背には空になった水桶をかつぎ、左の手には鶏をぶら提げ、右の手には杖を持ちながら、一頭の山羊をひっぱっていた。
 
道が薄暗い渓合に入って来ると、女は気づかわしそうに言葉をかけた。
「わたし何だか心配でたまらなくなったわ。こんな寂しい渓合を、あなたとたった二人で連立って歩いていて、もしかあなたが力ずくで接吻でもなすったら、どうしようかしら。ほんとうに困っちまうのよ。」
「え。僕が力ずくであなたを接吻するんですって。」男は思いがけない言いがかりに、腹立ちと可笑さとのごっちゃになった表情をした。

「馬鹿をいうものじゃありません。僕は御覧の通り、こんなに大きな水桶を背負って、片手には鶏をぶら提げ、片手には杖をついて、おまけに山羊をひっぱってるじゃありませんか。まるで手足を縛られたも同然の僕に、そんな真似が出来ようはずがありませんよ。」
「それはそうでしょうけれど……。」女はまだ気が許せなさそうにいった。
「でも、もしかあなたが、その杖を地べたに突きさして、それに山羊を繋いで、それから背の水桶をおろして、鶏をそのなかに伏せてさえおけば、いくら私が嫌がったって、力ずくで接吻することくらい出来るじゃありませんか。」

「そんなことなんか、僕考えてみたこともありません。」
男は険しい眼つきで、きっと女の顔を睨んだが、ふとその紅い唇が眼につくと、何だか気の利いたことの言える唇だなと思った。
 
二人は連立って、薄暗い樹蔭の小路に入って往った。人通りの全く絶えたあたりに来ると、男は女が言ったように、杖を地べたに突きさし、それに山羊を繋ぎ、背の水桶をおろして、鶏をそのなかに伏せた。そして女の肩を捉えて、無理強いに接吻したということだ。

切抜/薄田泣菫「艸木虫魚」より
コメント
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