快楽の果て。
等と言う言葉を聞くと
堕落や滅亡を連想するのは先入観の賜物であって とんでもありません。
読んで字の如く 快楽は快楽なのであります。
叡智とは本来 辛苦哀楽の何層にもわたる地層から滲み出るものでありましょう。
快辛。快苦。快哀。快楽。
人を動機付け生の実感をまざまざと こんこんと とうとうと つむぎだす事象であります。
チベット密教では 性交を司る仏さまの数々が教えを表現します。
真の快楽は真の叡智への出発点。
だって仕方ないじゃありませんか。
快楽の誘惑ほど ひとの理性を奪い去るものはないのであるからにして。
悦楽と快楽は こりゃまた違いますんで 一緒にしないで下さい。
なんでもそうでありますが 形態や表現や見たもの感じたものが同じでも 質 が違う事がよくあります。
味噌もくそも一緒にすると 盲目的になります。
盲目的な快楽からは なにやら変なものが生まれそうです。
快楽による叡智 と。
叡智による快楽 と。
まるで螺旋階段のように絡み合う 相互の困惑。
今年はアインシュタインさんの相対性理論誕生からから100年のようです。
叡智としてこの100年我々は 相対的に時間も空間もゆがむ。という感性を得ました。
おそらく快楽。 であろうと思われる事には叡智が潜んでいる。
われわれの中の宇宙を探検するような 相対的なもの。
快楽と叡智。
・・そのとおりでんなぁ。
なにが? そのとおりなんでっか?
いや。 かいらくはエッチ。 でえられるちゅうことでっしゃろ。
あほか。あんたは。 かいらくとえいち。 じゃありませんか。
・・・えいちは・・ H ちがうんでっか?・・・・。
だめだこりゃ!
南無煩悩大菩薩。
先生のお話は、いつも叡智にとびましたお話で
はらはら!ドキドキ!うなづきながら、読み進み
ますうちに、いつのまにか古典落語のように
「粋」な「落ち」に導かれ、思わず膝を叩いて
しまいます。
(ハイレベルすぎて、わたくしには何が何やら
さっぱり判らないこともしばしばですが・・)
でも、何だか可笑しい!何だかお洒落!
精神安定剤より、気分が楽しくなりますことは
事実です。
いつまでのお元気でいて下さいね
私は ハイレベル ではなく 蝿レベルの 話です。
手もみ状態なのであります。
ありがとうございます。